戦国の合戦

戦国の合戦

関ヶ原の戦い

 慶長5年9月15日(現在のグレゴリオ暦に換算すると1600年10月21日に当たります),美濃関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で,1日の戦いとしては,史上最大の合戦が行なわれました。関ヶ原は東西1里(約4キロ),南北半里(約2キロ),伊吹山地と鈴鹿山脈に挟まれた小盆地です。中仙道の宿場町ですが,古代三関の一つ不破の関のあったところで,交通の要衝でした。あとの二つは,東海道の鈴鹿の関と北陸道の愛発(あらち)の関です。
 ともあれ,その関ヶ原に東西合わせて17,8万もの軍勢(一説に20万)が押し寄せて,まさに天下分け目の大会戦が行なわれたのです。
 戦いの発端は,慶長3年(1598年)8月,豊臣秀吉が没したことによります。豊臣政権は,秀吉の子豊臣秀頼を中心に,徳川家康を筆頭とする五大老と,石田三成を筆頭とする五奉行によって行なわれることになりました。秀吉の遺命によるものです。
 しかし,翌慶長4年になると,五大老,五奉行間がゴタゴタし始めます。ですが前田利家が睨みをきかせており,何とか収まっていました。ところが,この年の閏(うるう)3月3日,利家が病没すると,細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長(よしなが)の七大名が,石田三成を襲うという事件が起こります。三成は大坂を脱出して,家康に救けを求めて,何とか危地を脱しました。家康はこのとき三成を殺すこともできたのですが,それでは大義が立ちません。家康は,三成に挙兵させて一気に叩き,天下を我がものにしようと考えていたのです。
 8月を過ぎると,他の4大老が前後して帰国し,家康が一人大坂城西の丸に入ります。五大老の権限を,事実上一人で担うことになったのです。いっぽう,会津に帰国した五大老の一人上杉景勝は,城の修築や道路の整備などを行ないます。これを戦争の準備と受け止めた家康は,景勝に上洛を命じますが,景勝は応じません。そこで家康は,諸国の大名に動員令を下し,諸大名を率いて江戸を発ち会津へと向かいます。7月21日のことです。
 しかしこれは,三成を挙兵させるための好妙な罠でした。もともと会津を攻める気のない家康は,ゆっくり兵を進め,下野小山に陣します。7月24日のことです。はたして,この陣に,危急の使者が駆けつけます。「三成挙兵」の報です。家康の東軍は急遽兵を返し,大坂へと向かいます。いっぽう三成の西軍は,これを阻止するため,9月15日の午前1時ごろ,雨の降るなか,主力部隊を関ヶ原に進出させ迎撃態勢に入ります。
 かくて午前7時すぎから,東軍9万余,西軍8万余の大軍勢が激突することになったのです。結果は,西軍小早川秀秋の裏切りや島津勢の不戦などもあって,東軍の圧勝に終わりました。この戦いは豊臣家の内部抗争ですが,家康の胸中に,すでに天下人への思いがあったことはまちがいありません。