古代史の人物で聖徳太子ほど,多くの人々に親しまれ尊敬され続けてきた人物はいません。偉大な政治家であり,思想家であり,宗教家であり,聖人と称えられてきました。日本における最高額の紙幣一万円札の顔は,長らく聖徳太子でした。
ですが,聖徳太子の実像は,濃い霧の彼方にあって,ほとんど判っていません。そのため架空の人物説が出されたほどです。
太子には多くの名がありますが,すべて称号で,生前の実名は不明です。「聖徳太子」の名は,現存する最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の序文に見えるのが最初で,『日本書紀』を初め,それまでのどの文献にも「聖徳」の名は登場しません。『懐風藻』は,太子が没して130年近くも経ってから出された書です。
太子の呼称のひとつに「厩戸皇子(うまやどのみこ)」というのがあります。『日本書紀』には,この名にちなむ次のような話が載せられています。
太子誕生の日,母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ=用明天皇の皇后)が,宮中をめぐって各官司を視察し,馬官(うまのつかさ)まで来たとき,厩(うまや)の戸にぶつかって急に産気づき,その場で太子を産み落とした,というのです。
何ともドジな話です。というより,皇妃が臨月のお腹をかかえて宮中を歩きまわり,厩舎の戸にぶつかったなどというのは,いかにも不自然です。あえて『日本書紀』が記したのには,意味があるにちがいありません。
じつは,おそらくこの話は,イエス・キリストの生誕伝説に基づくものなのです。
キリストは,ベツレヘムに行った母マリアによって,村の入り口の厩で産み落とされました。そして苦難の宗教活動ののち,非業の死を遂げますが,やがて偉大な救世主としてよみがえります。
太子が生まれたのは西暦574年ごろ,没したのは622年です。キリストの誕生は西暦元年ですから,6世紀以上を経ています。しかし,西暦600年代の前半には,すでに景教(キリスト教)が唐の都である長安(いまの西安)に伝えられていました。
『日本書紀』の編纂が終ったのは720年ですが,その間に遣唐使たちがキリスト伝説を持ち帰り,尊い話として太子誕生説話が作られた,と考えればつじつまが合うのです。
2022.6.16