ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ副会長,日本文藝家協会理事。

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水戸光圀はなぜ「黄門」なのか

 水戸黄門といえば何といっても,助さん,格さんを連れての諸国漫遊譚が有名です。各地で悪をこらしめ,善行をほどこし,最後に葵(あおい)の印籠(いんろう)をかざして,「ここにおられるのは天下の副将軍水戸のご老公なるぞ」で,一同ハハァーとひれ伏すという,毎度おなじみのワンパターンですが,何とも痛快でおもしろく,人気が高い。
 戦前の映画では,山本嘉一の黄門役に,片岡千恵蔵,阪東妻三郎の助さんと格さんが有名でした。戦後の映画での黄門役は,大河内伝次郎,市川右太衛門,月形竜之助,長谷川一夫,伴淳三郎,森繁久彌,中村鴈治郎,柳家全語楼など錚々(そうそう)たる名優たちが演じています。テレビ時代に入ると,月形竜之助にはじまり,東野英治郎,西村晃,佐野浅夫らが演じて人気を保ってきました。
 もちろん,映画やテレビの水戸黄門像は,史実とはかけ離れたものです。副将軍たる身分の大大名が,一介の百姓の爺さんの恰好をして,ひょこひょこと全国を旅して巡るなどということは,ありえないことです。副将軍というのもウソで,徳川幕府の職制に副将軍などというものはありません。ですけれど後世の民衆は,光圀に自分たちの夢を托して,伝説を創っていったのです。将軍にずけずけものをいう天下の御意見番,高い身分でありながら,庶民の側に下りてきて善政を施す政治家という黄門像を創り上げ,自分たちの味方としたのです。
 さて,光圀は寛永5年(1628)6月,ご三家の一つである水戸藩主徳川頼房の3男として生まれました。頼房は,徳川家康のいちばん末の子(11男)です。つまり光圀は,家康の孫に当たります。
 光圀の幼名は長丸(ちょうまる),のち千代松,9歳のときに元服して,3代将軍家光の「光」の字をもらい,「光国」と名乗りましたが,晩年に「国」を「圀」に改めました。字(あざな)は子竜(しりゅう),号は常山(じょうざん),また梅里(ばいり),隠居してからは西山(せいざん)と号しました。諡(おくりな)は義公(ぎこう)です。
 それが,なぜ「黄門」なのでしょうか。じつは,光圀の位は従三位(じゅさんみ)中納言です。中納言の唐名が黄門ですので,後世「水戸黄門」と通称されるようになったのです。生前に光圀が黄門と称されていたわけではありません。
 少年時代の光圀は,とにかくきかん気のわんぱくであったといいます。7歳のとき,父の頼房が,手討ちにした死罪人の首を持って来れるかと問いますと,屋敷から500メートルも離れた暗い森の中を,ずるずると首を引きずって戻って来たといいます。15,6歳のころには,「かぶき者」を気取った不良少年になり,放蕩無頼のかぎりをつくすのですが,18歳のとき,『史記』の「伯夷伝(はくいでん)」を読んでこれまでの行状を改め,学問に精を出すようになったといいます。このころ光圀が編纂を志した『大日本史』は,何と250年をかけて,明治39年(1906)に完成します。元禄7年(1694)11月,光圀は江戸の幕邸に老中以下幕閣の要人を招いて,能の興行を行ないますが,この席で家臣の一人藤井紋太夫を刺殺します。高慢で奢りがあったからといいますが,若き日の暴れん坊の激しい気性が残っていたのでしょうか。元禄13年(1700),73歳で生涯を終えました。

芭蕉「奥の細道」の旅に出る

 芭蕉が門人の河合曾良(かわいそら)を伴って,「奥の細道」の旅に出発したのは,元禄2年3月27日(現行暦では1689年5月16日)のことでした。すでに郭公(カッコウ)や時鳥(ホトトギス)の初音(はつね)も聞かれ,蛙の大合唱なども聞こえたことでしょう。
 旅の第一日目,芭蕉と曾良は,隅田川を船で遡って千住(せんじゅ)に上陸し,日光街道を辿(たど)って草加(そうか。今の埼玉県草加市)へと行きました。「奥の細道」の旅は,千住で船を上がるところから始まり,美濃大垣(今の岐阜県大垣市)で船に乗るところで終わります。つい見過ごされがちですが,江戸時代の旅は,川船を利用することが少なくありませんでした。
 「その日やうやう草加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物,まづ苦しむ。ただ身すがらにと出て立ちはべるを,紙子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ,浴衣,雨具,墨,筆のたぐひ,あるひはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは,さすがにうち捨てがたく,路次の煩(わずら)ひとなれることわりなけれ」
 身一つで旅に出ようと思ったのに,なんだかんだ餞別まで含めて荷が増え,痩せた肩に重荷が食い込んで音(ね)を上げつつ,どうにか,草加の宿に辿り着いたというのです。痩身の老翁が,重荷にあえぎ,やっとの思いで旅の第一日目を終えた様子が彷彿とします。
 ですが,だまされてはいけません。芭蕉はこのとき満45歳,心身共に充実した壮年です。芭蕉は「奥の細道」に,「呉天(ごてん。遠い異郷の地)に白髪の憾(うら)みを重ぬといへども,耳に触れていまだ目に見えぬ境,もし生きて帰らば,と定めなき頼みの末をかけ」云々などと記し,いかにも年老いて悲壮な決意のもとに旅立った風を装っていますが,それはあくまでも俳人としての文学上の表現なのです。千住から草加まで二里八丁,9キロ弱しかありません。それぐらいで音を上げていては,江戸時代の旅はおぼつきません。
 徒歩が基本の江戸期の旅では,女性でも1日30キロメートルぐらいは歩きました。芭蕉も結構健脚で,時には40キロメートルぐらいを平気で歩き通しています。事実この日も,曾良の日記によれば,泊まったのは草加ではなく,さらに4里10丁(約17キロ)先の粕壁(かすかべ。現在の春日部市)でした。
 芭蕉は,関東と関西の間は何度も往来していて,信州や中部地方にも足を運んでいました。ですけれど,芭蕉の胸中には常に,「北への憧れ」があったと思われます。いつの日か,かつて能因(のういん)法師や西行(さいぎょう)も辿った東北地方や北陸の地を彷徨(ほうこう)したい。その思いが叶(かな)ったのが,「奥の細道」の旅だったのです。日光や那須野を経て,白河の関を越え,いよいよ陸奥(みちのく)への第一歩をしるしたのは,4月20日のことでした。
 いま,4月20日ごろの白河の関跡を訪ねると,ピンクのカタクリの花と真白いアズマイチゲの群落が,芽吹き始めた林の下一面を彩って美しい。もっとも芭蕉が訪れた4月20日は,現在の太陽暦では6月7日です。卯(う)の花の盛りでした。

幕府,生類憐みの令を出す

 「生類憐みの令」は,徳川5代将軍綱吉の時代,生きとし生けるものの命を大切にして愛護するという,幕府の政策を指していいます。「生類憐みの令」という法令が出されたわけではありません。
 この政策は,世界でも早い時期の,国家による動物愛護の政策として,イギリスの動物愛護団体などから高い評価を得ています。しかし,江戸っ子たちにとっては,きわめて迷惑な政策でした。野犬に噛まれそうになった我が子をかばい,犬を蹴飛ばしたところ,けしからんということで牢につながれた例もありました。犬といわずに「お犬様」といわなければなりませんでした。
 江戸市中に多かったものを称して「お伊勢,稲荷(いなり)に犬の糞」といいます。伊勢参りが盛んでどこの家にも伊勢神宮のお札があり,お稲荷さん(稲荷神社)も大流行で江戸の各所にありました。そして「犬の糞」です。野犬がやたらに多かったのです。
 どのぐらい多かったかというと,元禄8年(1695年)江戸中野に作られた犬小屋で養われていた野犬だけでも,何と10万頭を超えたといいます。その費用は,すべて江戸市民の負担でした。
 徳川綱吉は,なぜこれほどの動物愛護政策をとったのでしょうか。
 これは,綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)と,桂昌院の寵僧である江戸護持院の僧隆光(りゅうこう)によるところが大きいのです。2人は,綱吉が戌年(いぬどし)生まれであるところから,犬を大切にすることによって治世がよくなり,名君と褒(ほ)め称えられるであろうと,綱吉に諭したのだといいます。真偽のほどはともあれ,犬愛護令よりも早く,諸国に,厳しい処罰条項と共に公示されたのが,「捨馬禁令」でした。
 馬は農民にとっても重要な動物でした。農耕馬の果たす役割は,極めて大きなものだったのです。ですが離れ馬,捨て馬となると話は別です。そうした馬は田畑を荒らし,農村に大きな被害をもたらしました。尻尾を切り取った馬の像が神社に飾られたりしているのは,馬の害に合わないよう祈願したものです。
 また,野犬の横行が目立った江戸では,捕まえて食べる者もいました。「羊頭狗肉(ようとうくにく)」という格言があるように,狗肉すなわち狗(いぬ)の肉は中国でも食べられていました。今でも中国の一部では,食用の犬が飼育されています。
 なお,生類憐みの令の「生類」は,次々にエスカレートしていきました。獣肉を食べないことはもちろんのこと,日常の食料である魚介類にまで及んだのです。食べないことはもちろんのこと,鳥や魚など籠や鉢に入れて飼うことも禁じられたのでした。オミクジを引く小鳥や,芸をする猿などもご法度(はっと)です。
 しかし,宝永6年(1709年)正月,徳川綱吉が没しますと,生類憐みの令も実質的に廃棄されることになりました。ただし,捨子(すてご)と捨牛馬を禁ずる法は,以後も幕法として出され続けました。牛馬はともあれ。子を捨てるという,あってはならないことが,少なからずあったのです。中絶や堕胎がままならなかった江戸時代ですので,産んでから捨てるということになります。いずれにせよ,本来許されるべきことではありません。

伊達騒動。原田甲斐,伊達安芸を斬殺

 伊達騒動(だてそうどう)というのは,江戸時代前期の寛文11年(1671年),奥州仙台藩の伊達家で起こった「お家騒動」のことです。
 江戸時代の中期にはすでに,歌舞伎狂言の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」となって人口に膾炙(かいしゃ)し,多くの人たちに知られていました。現代になってからは,山本周五郎が「樅(もみ)の木は残った」という小説に仕立て,さらに1970年には同作がNHK大河ドラマとなったことによって,ドラマとしても小説としても大ヒットしたのです。
 では,事件の経緯を見てみましょう。
 仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が幕府から隠居を命ぜられたのは,万治3年(1660年)のことでした。江戸小石川堀の普請に際して不行跡があったというのです。100万石の加賀前田家に次ぐ日本で二番目の大藩である仙台藩伊達家62万を継いだのは,何と僅か2歳の幼児亀千代(のちの綱村)でした。しかし2歳の幼児に藩政を司ることなど,できるはずはありません。そこで叔父の伊達兵部少輔宗勝(だてひょうぶしょうゆうむねかつ)と,庶兄(しょけい)の田村右京宗良が,それぞれ3万石を分知されて後見人となり,また幕府の国目付が毎年伊達家に派遣されて,藩政が行なわれたのです。
 当初,権勢をふるっていたのは,伊達家の奉行奥山大学常辰(つねとき)ですが,伊達兵部は寛文3年(1663年),奥山大学を罷免してしまいます。そして,幕府老中の酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行の原田甲斐(はらだかい)や側近たちを重用(ちょうよう)して,反対派を大弾圧するのです。17名が斬罪切腹となり,120名が処分を受けました。
 その後,仙台藩伊達家のごたごたは,まだまだ続きます。寛文6年には亀千代毒殺未遂のうわさが立ち,医師の河野道円父子が殺害され,寛文8年にも似たような事件が起きます。これらの事件の背景には,伊達兵部らの陰謀があるのではないかという,うわさが立ち,兵部への非難が高まります。またそのころ,伊達一門の伊達安芸宗重と同じく宗倫が,知行地をめぐる境界線争いを続け,伊達兵部の裁定に不満を持つ者たちが,何と幕府に上訴するのです。
 寛文11年,大老酒井忠清のもとで審議が開始されることになりました。ところが,同年3月27日,酒井忠清邸での審議のさなかに,兵部派の敗北をさとった原田甲斐が,やにわに伊達安芸を斬殺し,乱闘のなかで自らも斬死してしまうのです。兵部と田村右京は,当然のことですが,任を解かれ配流・閉門という処分を受けました。
 以上が事件のあらましですが,この伊達家のお家騒動は,実録本や講談,歌舞伎,人形浄瑠璃などに広く取り上げられることになります。それらの作品群を総称して「伊達騒動物」といいます。それらのなかで,現代につづく名作が「伽羅先代萩」というわけです。

明暦の大火「振袖火事」起こる

 「てやんでえ,べらぼうめ」江戸っ子は気が短い,喧嘩騒ぎは日常茶飯事でした。その喧嘩騒ぎと同様に多かったのが,火事騒ぎです。「火事と喧嘩は江戸の華」です。
 江戸に火災が多発したのには,原因があります。家屋が木と紙で造られていて,しかも急激に人口が増えたので,都市計画も何もなく,人家が密集していたからです。しかも当初は,屋根も草(藁)葺きでした。そのうえ,冬期には,乾燥した烈しい西北の季節風が吹きました。
 江戸には,諸国から食いつめた浮浪者などが集まってきます。当然,火元の取締りなどは悪く,放火なども少なくありませんでした。ひとたび火事が発生すると,大火になることが多かったのです。江戸時代を通じて,大火と教えられる火災は,80数回にのぼっています。嚆矢(こうし)は,慶長6年(1601年。家康が幕府を開いたのは慶長8年)閏11月2日の駿河町火事でした。当時,町屋のほとんどは草葺き屋根でした。このため,江戸の町のほとんどが延焼することになったのです。大火後,江戸町奉行から,町屋は板葺きとするよう達しが出ました。さらに後には,町屋の多くは瓦葺きとなり,また火除け地が造られたりしましたが,「江戸の火事」は「喧嘩」と同様,なかなか減りませんでした。
 江戸の三大大火として知られるのは,明暦3年1月の「振袖火事」,明和9年2月の「行人坂(ぎょうにんざか)火事」,文化3年3月に芝で起こった「丙寅(ひのえとら)の大火」です。
 明暦の大火は,明暦3年(1657年)正月18日から19日にかけて,江戸の各所で起こった3つの火事の総称です。第1の火災は,本郷丸山の本妙寺が火元で,大施餓鬼(おおせがき)の火に投じた振袖が燃え上がり,折からの風に乗ってあちこちに飛び火し,江戸の町の大半を焼きました。そのため,「振袖火事」と呼ばれます。もっともこれは,後年につくられた俗説で,当初のころの資料には,どこを見ても「振袖火事」の名称は出てきません。
 ともあれ,本妙寺から出火したのは,午後2時ごろでした。強風に煽(あお)られて,本郷,湯島,駿河台へと延焼し,さらに下町の神田から日本橋へと及びました。夕方になると,風向きが西風に変わり,鎌倉河岸(かまくらがし)の辺りから東に火線が移って,茅場(かやば)町,八丁堀,さらに霊岸島から佃(つくだ)島までの下町一帯を焼き尽くすことになります。このとき,霊厳寺が焼けて多くの死者を出し,また浅草橋の見付(みつけ)の門が閉じられていたため,逃げ場を失った多数の江戸市民が犠牲になりました。
 第2の火災は19日午前11時過ぎ,小石川の武家屋敷からの出火,これも強風に乗って神田から京橋,さらに新橋のあたりまで延焼しました。このとき,江戸城中に飛び火し,天守閣をはじめ,西の丸を除く多くの建物を焼失しました。以後,江戸城には,現在に至るまで天守閣がありません。大老の保科正之(ほしなまさゆき)が建てさせなかったのです。たまに将軍が登って江戸の町を見下ろすぐらいの役割しかない天守閣を再建するなら,その金を江戸の町の復興に使うべきであると。
 第3の出火は麹町(こうじまち)5丁目の町屋が火元で,東に延焼して,外神田から西の丸下の大名屋敷を総なめにし,日比谷から愛宕下,芝方面におよび,やっと火がおさまったのは,20日の朝でした。被災地は,現在の千代田区と中央区のほとんどで,当時の江戸市街の大半に及びました。一説に10万人に及ぶ焼死者を出したといいます。
 焼死者は,本所の辺りに大きな穴を掘って埋葬しました。のち,その地に,焼死者供養のために建てられたのが,回向院(えこういん)です。

由比正雪と丸橋忠弥の慶安事件

 江戸時代前期の慶安4年(1651年)7月,由比(由井)正雪,丸橋忠弥,加藤市郎右衛門,金井半兵衛らを主謀者とする牢人(浪人)たちの反乱計画が露顕しました。慶安の変,由比正雪の乱ともいいます。
 関ヶ原の戦いの後,徳川幕府が成立しますが,幕府は多くの外様大名を改易したり減封したりしました。そのため主家を失った武士,すなわち牢人が多数発生するということになりました。太平の世になったため,武士としての士官は思うにまかせず,鎖国となって,海外へ雄飛する道も閉ざされ,彼らの生活は大いに困窮することになったのです。
 当時,軍学者として名を知られていた由比正雪は,士官の周旋を望む牢人たちを数多く集めていました。そんなとき,三河刈谷(かりや)藩主の松平定政が,上書(じょうしょ)して幕政を正そうとしたのですが,改易されてします。慶安4年7月18日のことです。世上,幕閣の不統一が喧伝され,政局は不安定な状況となりました。正雪にとっては,まさに好機到来です。正雪は彼らと語らって,叛乱を起こしたのです。
 江戸では,丸橋忠弥を指揮官として,江戸の各所に火を放って火の海と化し,その騒ぎに乗じて江戸城内に侵入し,将軍を奪って正雪らの拠る駿河の久能山(静岡市)に急行する。佐原重兵衛,長山兵右衛門の率いる一隊は,譜代大名の屋敷に火薬を投じて乱入,柴原又右衛門の率いる一隊は鉄砲三百梃を用意し,将軍を奪った忠弥らを追撃する兵を喰い止める。また京都では,加藤市郎右衛門,吉田初右衛門を指揮官に,江戸からの吉報を待って同様の手段で二条城を乗っ取り,大坂では金井半兵衛,石橋源右衛門を指揮官に,正雪からの報らせを待って市中各所に火を放ち,諸大名の蔵屋敷を急襲して米穀を奪い,大坂城に立て籠る。正雪自身は,久能山の金銀を奪って,駿府城を攻略し,将軍を擁立して天下に号令する。以上が正雪の計略でした。
 正雪は,3千人あるいは5千人の兵を集めたといいますが,7月23日の夜に,数人が訴人したことによって計画は露顕し,失敗に終わってしまいます。
 幕府は,すぐさま正雪追捕の使者を駿府に急派すると共に,南北両町奉行所の与力・同心と捕り方を差し向けて,忠弥とその一味を召し捕りました。そして,7月26日,駿府茶町(静岡市)の旅宿に,紀州家の家中と称して宿泊していた正雪以下を取り囲んだのです。しかし,一味の多くは自刃して果てました。7月30日,正雪は,改めて駿府で獄門にかけられ,8月10日には,忠弥以下35人ほどが江戸の鈴ヶ森(東京都品川)で処刑されました。9月18日には,正雪の親族らが集められ,駿府で,磔刑もしくは斬首されて,事件は落着をみたのでした。
 正雪の乱の目的は,正雪自身による幕政改革説,林羅山によるキリシタン説,また近代以降は牢人救済説等があります。この事件以降,幕府は,牢人の発生源である大名家の改易や減封に手心を加えていきます。その結果,大名・旗本の改易や減封は激減し,牢人問題も落ちついていったのです。この事件はまた,武断から文治へと幕政が転換する端緒ともなり,政治史上の画期的な事件となったのでした。

ポルトガル船を禁じ鎖国を完成

 ポルトガル船が種子島(たねがしま)に来航したのは,戦国時代真っ盛りの天文12年(1543年)のことでした。ヨーロッパでは,コペルニクスが地動説を発表した年です。
 6年後の天文18年,フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航して,日本にキリスト教が伝来します。
 織田信長は,宣教師によってもたらされた知識や文物に,大いに興味を示します。また地球儀を見て,並いる日本人は理解できませんが,信長だけは,地球が丸いということを理解したといいます。信長こそは,唐(から=中国),天竺(てんじく=インド),そして日本以外の新しい世界と文化の存在を認識した最初の為政者でした。
 豊臣秀吉は,当初こそ信長のやり方を継承しますが,天正15年(1587年)6月,九州を平定すると,5ヵ条からなるキリスト教禁教令(伴天連追放令)を発し,さらに宣教師の追放令を出します。キリシタン信徒たちが,神社仏閣を破壊したりした行為を非難し,キリスト教を「邪法」として,その布教を禁じ,宣教師たちを追放したのです。しかしこの禁令では,神仏を妨げないかぎり,我が国と「きりしたん国」の往来と貿易は自由でした。
 秀吉は天正16年(1588年)7月,海賊禁止令を公布して,徹底した私貿易の取締りに乗り出します。そして文禄5年(1596年),「サンフェリペ号事件」が起きます。土佐に漂着したイスパニア(スペイン)船サンフェリペ号の船員が,キリシタン伝道は,国土侵略の手段であると語った事件です。
 これによって禁教が強化され,長崎において26人の信徒と宣教師が処刑されました。現在長崎には,26聖人の碑があり,キリシタン聖地の一つであるとともに,観光名所ともなっています。
 さて,徳川家康はキリスト教に対して,どう対応したのでしょうか。
 慶長5年(1600年)3月,オランダ船の「リーフデ号」が,豊後(ぶんご=大分県の大部分)に漂着します。これを機に,プロテスタントの国オランダ,イギリスが日本に進出することになります。リーフデ号の航海士ウィリアム・アダムスが,外交顧客として家康に仕えることになったのが,契機です。
 アダムスは,三浦按針(みうらあんじん)の日本名を得て活躍します。家康は,ポルトガル,オランダ,イギリスなど西欧諸国と,東南アジア諸国に対し,朱印船貿易に基づいて広く対応していくのです。しかしキリスト教に関しては,一貫して「邪教」観を持ちつづけます。二代将軍秀忠も,これを引き継ぎ,幕府は,キリシタン弾圧を強化していきます。同様に,海外との交易もせばめられていくのです。
 そして三代将軍家光の代になり,日本は,朝鮮と中国,長崎の出島を通じてのオランダを例外として,鎖国体制に成立させるのです。寛永18年(1641年)に確立した鎖国は,安政元年(1854年)に,ペリー艦隊来航のもとで日米和親条約(神奈川条約)が結ばれるまでの213年間,つづいたのでした。

キリスト教を禁じて鎖国する

 江戸幕府における鎖国は,オランダ人を長崎の出島(でじま)に強制移住させた,寛永18年(1641)に始まりました。その後,安政元年(1854)に米国のペリーが来航し,日米和親条約が調印されて開国するまで,200年余の間,日本は鎖国していました。
 とはいえ,その間日本が世界から,まったく孤立していたというわけではありません。出島にはオランダの商館があり,少なからずヨーロッパの文物や情報が,幕府にもたらされていました。また,朝鮮とは国交が開かれており,中国とは交易がつづけられていました。
 幕府の草創期,家康は積極的に海外諸国との交易を推進します。しかし,宗教すなわちキリスト教の布教に関しては,取締まりを強化するのです。これは,家康の政治顧問であった金地院崇伝と天海が,共に仏僧であったことと関係が深いと思われます。
 慶長18年(1613)12月,すでに将軍は,2代秀忠となっていましたが,依然実権は家康が握っていました。家康はキリシタン禁教令を発布して,全国的にキリスト教徒の取締まりに着手するのです。
 そして,家康が75歳で没した元和2年(1616),2代将軍秀忠によって,家康以来の懸案であるキリシタン禁教令が発布されたのです。同時に,ヨーロッパとの商取引き地は,平戸・長崎の両港に限定されました。それまで自由であった国内での商取引きは,一切禁止されたのです。
 やがて3代将軍家光の代になり,いよいよ鎖国は加速されて,ついに寛永16年(1639)7月5日,17カ条の条文をもって,鎖国政策は完成しました。寛永10年から5段階にわたって鎖国令は発せられるのですが,その条文はほぼ似通っています。大まかに要約しますと,以下の通りです。
 第1条から3条までは,日本人の海外往来の禁止,第4条から8条までは,キリスト教の禁止および伴天連(バテレン)追放令,9条以下は,外国船との貿易取締まりの規定です。また寛永12年の令では,日本船の海外渡航と,海外在住の日本人の帰朝を絶対無条件で禁ずるのです。同13年の9月には,ポルトガル人やその混血児など287人をマカオに追放します。
 さらに寛永16年になると,それまでおとがめのなかったオランダ人や中国人に対しても,その居住地に制限を加えるなど断圧をします。この取締りに基づいて日本在住のオランダ人やその混血児など30数人がジャカルタに追放されました。その中にいたジャガタラお春の話は,よく知られています。ともあれ天文以来1世紀つづいたポルトガル船との交易は,こうして完全に禁止されたのでした。
 しかしオランダは,日本の対ヨーロッパ貿易の独占に成功し,中国も長崎を通じて交易していました。ですが,キリスト教を媒介として導入されかけたヨーロッパの合理的精神の芽はつみ取られ,中国からの漢籍の輸入も厳しく制限されてしまいます。鎖国は,結局前後215年にわたって続きましたが,そのために失なったものは少なくありません。また逆に日本独特の江戸時代の文化の発展をうながしたことも事実です。

天草の乱とキリシタン禁制

 江戸時代初期の寛永14年(1637年)から翌年にかけて,肥前国(熊本県)と,同唐津藩の飛地肥後国(同)天草の地で,大規模な百姓一揆が起こりました。
 一揆勢の首領は天草(益田)四郎時貞。まだ十代半ばの少年でした。キリシタン一揆とされますが,宗教的な意味合いは濃くありません。たしかに,一揆勢の多くはキリシタンでしたが,教義をめぐる争いが一揆に発展したわけではありません。当初,一揆勢の要求は,あくまでも重税に対する抗議と,年貢減免等を求めた百姓一揆でした。天草の乱として知られますが,歴史用語としては「島原の乱」です。
 寛永14年の10月25日,一揆は島原半島南部に端を発し,翌日には島原城を攻めます。あわや落城というほどの猛攻でした。島原藩では,藩主松倉勝家が参府中(参勤交代で江戸詰め中)でした。ともあれ島原藩では,藩主に急使を出すと共に,近隣諸藩に救援を求めました。しかし諸藩は,幕府の指示を待って動きませんでした。一揆勢は,つぎつぎに寺社を焼き,27日には島原城を猛攻したのです。一揆は島原藩全域に拡大していきました。
 このころ,天草でも益田四郎(天草四郎)の出身地大矢野島を中心に一揆軍が蜂起し,島原勢と合流します。3~4千人となった彼らは,本渡(ほんど)での戦いで富岡城代の三宅藤兵衛重利を敗死させ,さらに天草地方のほぼ全域を一揆に巻き込んで,11月19日から4日間,富岡城を攻撃するのです。しかし,落城寸前まで追い込んだのにもかかわらず,ついに本丸を抜くことができずに,撤退を余儀なくされたのでした。
 一揆の報が江戸にもたらされると,幕府は,キリシタン一揆として,事態を重視します。そこで幕府老中の板倉重昌(しげまさ)を上使として,佐賀・久留米・柳河の三藩に出動を命じ,重昌も島原に赴くのです。さらに幕府は,重ねて上使として,老中の松平信綱を派遣します。これを知った板倉重昌は,信綱の到着前に何とか一揆を平定しようと,寛永15年1月1日,強引な総攻撃を命じ,自らも戦場に赴いて,討死してしまうのです。
 いっぽう一揆勢は,2万数千人。といっても,老若男女合わせての人数です。
 1月4日,松平信綱は着陣すると,戦術を変えます。無理攻めをせずに,兵糧攻めに転ずるのです。その間,投降勧告,オランダ商館による砲撃,金掘役を使った爆破計画などで,一揆勢を揺さぶり続けます。そしてついに,2月28日・29日の総攻撃で一揆勢を破ります。幕府側に寝返った絵師の山田右衛門作(えもさく)一人を除いて,一揆勢は全員が殺されました。
 1990年ごろの秋,遠藤周作さんと一揆勢が籠った原城跡を訪ねたことがあります。城跡には大きな穴がありました。「ここに籠っとんたんや」遠藤さんはいいます。「真冬に着るものものなく,ここで皆が肩を寄せ合っとんやろな」「それにしても,オシッコやウンチはどうしたんやろ」籠城戦では,いつもそのことが気になるといいます。あまりにも日常的なことだから,記録には残りません。しかし廃城となっていた原城に籠った一揆勢は2万7千7百数十人といいます。毎日の排泄物だけでも,厖大な量であったに違いありません。戦いの勝ち敗けや,戦術・戦略ではなく,最も人間的な日常を思う遠藤さんに,教えられたことを思い出します。
 ともあれ幕府は,この後,禁教を強化し,農民統制を強め,ポルトガルとの貿易禁止に踏み切って,鎖国へと向かっていくことになるのです。

外様大名に参勤交代を命ずる

 参勤交代とは,江戸時代,各大名が隔年ごとに江戸に参勤する制度をいいます。参観交替とも書き,寛永12年6月21日の『武家諸法度』第2条に,「大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤」と定められ,正式に制度化されました。
 それ以前,織豊政権下では,織田信長は服属した大名を,岐阜域・安土城に参勤させました。豊臣秀吉は,大坂城・聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)・伏見城の周辺に諸大名の邸宅を置き,その領国との間を往復させました。また秀吉は,大名の妻子の在京・諸家臣とその妻子が城下に集中することを,全国的規模で強制して,参勤交代制の雛形を作ったのです。
 しかし,すべての大名家が参勤交代したわけではありません。御三家(水戸・尾張・紀伊の徳川家。家康の9・10・11男を藩祖として成立した,大名家のうちで最も格の高い藩)のうちで水戸徳川家は江戸に常住していました。すなわち定府(じょうふ)大名です。参勤交代する必要はありません。また老中・若年寄・奉行なども定府大名でした。
 いっぽう,対馬(つしま)の宗(そう)氏は三年に一勤,蝦夷地(北海道)の松前氏は六年に一勤でした。いうまでもなく,あまりにも遠隔地だからです。
 また,参勤交代を義務づけられたのは,大名だけではありません。交代寄合である旗本三十余家(表札衆・那須衆・美濃衆・三河衆など)も参勤交代をしなければなりませんでした。交代寄合というのは,3千石以上の無役の旗本で,参勤交代をするものたちをいいます。
 享保7年(1722),幕府は財政窮乏を打開するために,各大名から石高1万石につき百石の上米(あげまい)を徴収します。その代わりに,在府期間を短縮しました。しかしこれは,参勤交代制の根幹にふれる対策でしたので,間もなく旧に復することになります。
 幕末になりますと,内外の情勢が緊迫化します。そこで,文化2年(1862)には,一橋慶喜(よしのぶ)や松平慶永(よしなが。春嶽=しゅんがく)らによる幕府改革で,大名は3年に1年,または100日の在府。また,その妻や嫡子は,在府・在国自由となりました。それまで大名の妻子が江戸定住を強いられたものは,人質の意味もあったからです。
 しかし,こうした大名政策は,幕府の大名統制力の低下によるものにほかならず,結局,幕末の倒壊を早めただけに終わったのでした。
 本来,参勤交代の制度は,幕府体制による幕府の政治的基幹として,諸大名の地方割拠の形勢を抑制して中央集権の実をあげるのに,絶大な効果があったのです。いっぽう諸大名は,江戸と領国との二重生活によって,繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。とくに遠隔地の外様大名は,多大な負担を強いられてきました。
 ですが,水陸交通の整備,宿場町などの発展,江戸文化の地方伝播・庶民文化の発達等,プラス面も少なくありませんでした。