ちはやぶる日本史

序文

プロローグ

 私たちは過去から未来に向かって,今という時を生きています。ただ漠然と生きているわけではなく,よりよき未来を求めて考えながら歩いています。ですけれど,未来を考えるためには,今を知ることが必要です。そして,今を知るためには過去すなわち歴史を知らなければなりません。今という時は,先人たちが営々と築いてきた,そして今も築き続けている歴史の上に成り立っているからです。
 「歴史を知らずして今を語ることなかれ。今を判らずして未来を語ることなかれ」
です。
 それでは,今を知るために,そして未来を語るために歴史の森へ分け入ってみることにしましょう。とはいえ,これから語ろうとするのは,小むずかしい学術的な歴史ではありません。教科書などで語られる歴史とは一味ちがった「へえー。そうなの」という,おもしろく興味深い話です。どうぞ気軽におつき合いください。

高橋ちはや

著者紹介

高橋千劔破(たかはし・ちはや)
 1943年東京生まれ。立教大学日本文学科卒業後,人物往来社入社。 月刊『歴史読本』編集長,同社取締役編集局長を経て,執筆活動に入る。 2001年,『花鳥風月の日本史』(河出文庫)で尾崎秀樹記念「大衆文学研究賞」受賞。 著書に『歴史を動かした女たち』『歴史を動かした男たち』(中公文庫), 『江戸の旅人』(集英社文庫),『名山の日本史』『名山の文化史』『名山の民族史』 『江戸の食彩 春夏秋冬』(河出書房新社)など多数。日本ペンクラブ理事。

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義経はなぜ強かったか

「判官(ほうがん)びいき」という言葉があります。弱い方に応援したくなる心情をいう言葉ですが,もとは,源義経(九郎判官)を多くの人びとがひいきし続けてきたことに,由来します。源頼朝と義経の兄弟を比較した場合,歴史的には,頼朝の方がはるかに重要な人物です。しかし,人気という点になると,圧倒的に義経が勝ります。これは,『平家物語』や『源平盛衰記』,また『義経記(ぎけいき)』などによって,義経の薄幸な生い立ちと悲劇的な最期が,広く流布したからに他なりません。古今東西,常に文学は,史実を凌駕(りょうが)します。
 では,義経は弱き人物だったのでしょうか。いや,とんでもありません。義経は,勇猛なる武人で,きわめて強き人物です。危険な人物といってもいいでしょう。
 源平合戦が始まると,手勢を引き連れて頼朝のもとに馳せ参じた義経は,一年余りの間に四度の合戦を,すべて一日で勝利し,ついに平家を滅亡させました。なぜ,かくも強かったのでしょうか。勇猛果敢であり,機を見るに敏で,奇襲戦を得意とした,などに加えて,勝つためには手段を選ばない非情さを持ち合わせていたからです。
 まず,寿永3年(1184)1月20日の「宇治川の先陣争い」で知られた戦い。義経軍は,敵の侵入を防ぐ逆茂木(さかもぎ)が並べられた真冬の冷たい川を,強引に押し渡って,木曾義仲軍を一蹴します。ずぶ濡れになって川を渡った多くの徒立(かちだち)の兵たちは,大声を上げて敵に突喚(とっかん)するしかなかったでしょう。もたもたしていたら,寒さにこごえてしまいます。続く2月5日夜,「一の谷の戦い」に先立ち,義経軍は三草山(みつくさやま)の平家の前衛部隊を急襲して壊滅させました。このとき,民家に火をつけて平家軍を追いつめますが,老人や子供や女性までも犠牲にしています。
 翌年2月,「屋島の戦い」で,義経軍は,夜の荒海を乗り切って四国に渡ったとされます。義経の乗った船は大きく安全であったにちがいありませんが,波浪に翻弄されて海の藻屑と消えた兵士も,少なからずいたと思われます。「壇ノ浦の戦い」で,義経はついに平家を滅亡させますが,この海戦で義経は,平家方の小舟の「水夫(かこ)を射よ,梶取(かんどり)を殺せ」と命じたといいます。
小舟の漕手たちは,瀬戸内海の水夫や漁師たちで非戦闘員です。彼らに矢を向けないのは,陸の戦いで馬を射ないのと同じで,暗黙の約束でした。
 しかし義経は,これまでの戦いのルールやセオリーを無視して,非情な戦いに徹しました。卑怯とされる夜討ち朝駆けはもちろん,民家も平気で焼き,女性や老人,子供であろうと容赦なく殺し,将を討つためには,まず馬を射るという戦い方をしました。だから,義経は強かったのです。

大力無双だった畠山重忠

 源平の争乱を経て源頼朝が鎌倉幕府を樹立する過程で,武蔵武士が果たした役割は,大きなものでした。その武蔵武士の代表的な一人が畠山重忠です。大力無双で剛直一途な人物と伝えられ,いっぽう歌舞音曲(かぶおんぎょく)に通じ,誠実で思いやりのある武将であったとも伝えられています。
 その重忠のハイライトは,一の谷の戦いにおける名場面です。鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおとし)のエピソードがそれです。源義経以下が,急坂を一気に駆け下って一の谷の平家の陣を急襲したとき,重忠は愛馬をいたわり,担いで下ったというのです。重忠のやさしさと大力を伝える話として有名ですが,もちろん史実とはいえません。
 重忠が,いつどこで生まれたのかは正確には判っていません。武蔵二俣川(横浜市)で悲劇的な最後をとげたとき42歳であったといい,逆算すると長寛2年(1164)の生まれということになります。生まれはおそらく,畠山庄であったと思われます。畠山庄は,埼玉県大里郡川本町(現 深谷市)の大字畠山の地で,そこに重忠の父畠山重能(しげよし)の館があったと考えられています。熊谷市の西方およそ10キロ,秩父の山地が背後にひかえる荒川南岸の台地です。幼少期に関しては不明ですが,重忠はおそらく,北武蔵の山や川を背景として,剛直な武蔵武士に成長したものと思われます。
 いっぽう重忠は,今様(いまよう)を歌い鼓の名手でもあるなど,音曲にすぐれた才能を持っていたことが知られています。あるいは少年時代,父重能の出仕に伴って上京し,都(みやこ)で育った一時期があったのかも知れません。
 『平家物語』の名場面のひとつに,「宇治川の先陣争い」があります。このとき重忠は乗馬を射られたので,徒歩(かち)で渡河しようとしました。すると,これも馬を流された大串重親(おおぐししげちか)という武士が,流されまいと重忠にしがみついてきました。すると重忠は,やにわに大串を抱えて,岸辺に投げ上げたというのです。また『源平盛衰記』は,このあと京都で戦った重忠が,巴御前の鎧の袖を引きちぎった話をのせます。一の谷の戦いは,このすぐ後のことです。
 重忠は,平家滅亡後,頼朝に近侍しますが,音曲の才を愛でられ,また頼朝の乞いで,腕自慢の力士と相撲をとり,投げ飛ばして喝采を浴びたりもしました。
 しかし頼朝の没後,二代将軍源頼家に仕えた重忠の立場は微妙なものとなります。北条一族によって幕府の功臣が次々に排され,頼家さえも殺されてしまいます。そして,元久2年(1205),執権北条時政の妻の讒言(ざんげん)により,重忠は謀反の疑いをかけられ,菅谷の館を出て鎌倉に出頭しようとする途中,待伏せしていた北条軍に襲われ,殺されてしまうのです。

頼朝を支えた関東の平氏

 平安時代の末期,12世紀半ばに起こった保元の乱(1156)と平治の乱(1159)によって,源平時代の幕が開きます。それまでの藤原氏を中心とする貴族中心の王朝政治は,源氏と平氏という新興の武家勢力によって翻弄され,治承4年(1180)の源平合戦の開幕によって終焉しました。
 ではまず源氏と平氏について,見ていくことにします。「源(みなもと)」「平(たいら)」という姓は,臣籍降下(しんせきこうか)した元皇族に与えられた賜姓(しせい)です。天皇とその一族すなわち皇族は,姓を持っていません。ですが,臣籍に降下して皇族の身分を離れると,姓が必要となります。
 「源」姓を与えられた例は多く,嵯峨天皇が皇子皇女に与えた嵯峨源氏に始まり,仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・花山・三条ら各天皇の皇子女が,「源」姓を賜わって臣籍に下り,源氏の諸流が生まれました。多くは貴族となりますが,清和天皇から出た清和源氏が武門の名流として最も栄え,この系統から出た源頼信とその子義家(八幡太郎)が,前九年・後三年の役による活躍で東国の武士の信望を集め,関東における武士団の棟梁としての地位を獲得したのです。その八幡太郎義家の孫が源義朝で,源頼朝はその三男です。
 さて平氏は,桓武天皇の皇子の葛原親王の子である高棟王や高見王らが,「平」姓を与えられて臣籍降下したのに始まります。高棟流は宮廷貴族として活躍しますが,高見王の子である高望(たかもち)が関東に下って土着し,その子孫が坂東平氏の諸流を生みます。また,その中から岐(わか)れた伊勢平氏が,平清盛につながっていきます。
 坂東と関東は同じ意味で,箱根の坂(箱根の関)の東の土地という意味。さて関東に広がった主な平氏は,千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八流があり,坂東八平と呼ばれます。この坂東平氏のほとんどが,源頼朝の挙兵を支え,鎌倉幕府の有力な御家人(ごけにん)になりました。
 ではなぜ,関東の平氏たちはこぞって頼朝に味方したのでしょうか。実は彼らに,中央で権力をほしいままにする平家と同族であるという意識は,ほとんどありませんでした。彼らには,平将門以来の,中央権力(すなわち西の勢力)に対する反逆の精神が,脈々と流れていたのです。彼らは平氏の一族であるよりも,東国の武士なのです。また頼朝が北条政子と結ばれたことも,大きなことでした。北条氏は,伊豆に根を張った平氏の一族ですが,政子の父北条時政は全面的に娘政子の婿頼朝を支え,関東の平氏たちを味方に引き入れるため,全力を尽くしました。こうして頼朝は京都の平氏を破り,関東の鎌倉に幕府を開いたのです。

源氏一族,骨肉の争い

 「源平時代」というのは,平安王朝が滅んでから鎌倉幕府が創立されるまでの,争乱期の俗称です。平安王朝を滅ぼしたのは平氏(平家)で,その平氏を滅ぼした源氏が,次なる時代の扉を開けました。順序からいえば「平源時代」というべきでしょうが,なぜか「源」が先です。これには訳があります。「源氏」の人気が常に「平氏」を圧倒してきたからにほかありません。平氏を滅亡させた源義経が,この時代最大のヒーローであることを考えれば,仕方のないことといえます。
 「源平時代」は,「源平合戦」の時代であり,源氏と平氏が死闘を繰り広げた時代ですが,この時代の合戦がすべて源氏対平氏というわけではありません。平氏は,「平家」という称し方がまさにぴったり,結束の固い大家族といった感じで,ほとんど内部抗争はありません。ところが源氏は,親子兄弟入り乱れて争いを続けた一族です。家にたとえるなら,平家はおだやかで仲のよい家で,源氏は親子げんかや兄弟げんかの絶えない家ということになります。
 前回,「木曾義仲」の項で触れましたが,赤ん坊の義仲が,武蔵国比企(埼玉県)から木曾谷(長野県)に落ちのびなければならなかったのは,父の源義賢が源義平に殺されたからです。義平は源義朝の長男で,義賢は義朝の弟です。つまり義平は叔父にあたる義賢と争い,戦いに勝って叔父を殺したということになります。戦いは,勢力争いです。義朝は鎌倉を中心に相模国(神奈川県)に勢力を張り,武蔵国(東京・埼玉)にも勢力を広げて行きます。いっぽう義賢は,上野国(群馬県)から北武蔵(埼玉県)にかけて勢力を広げていました。両者の衝突は必然です。ところが,義朝は,長男義平と二男の朝長に関東の経営をまかせて,自らは京都に上ります。中央での覇権を目指したのです。武蔵国の制圧は,もはや問題ないと思ったのでしょう。事実,義平は叔父義賢を殺して武蔵国を配下に治めます。
 義朝の中央制覇は,保元の乱に勝利したところまではよかったのですが,結局うまくいきませんでした。平治の乱で平清盛に敗れ,東国へ逃げる途中で殺されてしまいます。義平も朝長もこの戦いにからんで死にます。しかし,義朝が都に出てきてから儲けた子供たちの何人かが生きのびます。源頼朝と範頼や義経たちです。やがて彼らが源氏の覇権を打ち建てます。
 まずは長じた木曾義仲が,信濃勢を率いて都に上り,平家を追います。その義仲を,頼朝の命を受けた範頼・義経軍が襲い,殺してしまいます。その後,義経らは平家を滅ぼしますが,結局は頼朝に殺されます。範頼も同様です。源氏は平氏と争ういっぽうで,骨肉の争いをしていたわけです。その背景にあったものは何か。次回をお楽しみに…。

英雄にはなれなかった木曾義仲

 木曾義仲は,治承・寿永の争乱(源平合戦)で華々しい活躍をし,平家全盛の世をひっくり返した。義仲の存在がなければ,平家があれほど早く滅亡への道をたどることはなかったであろう。
 だが,平家を逐って都を占拠し,旭将軍と称えられた義仲の栄光は,一瞬でしかなかった。源頼朝の意を受けた源義経に攻められ,悲劇的な最期をとげた。義経も,結局は頼朝によって非業の死をとげるが,死後,国民的なヒーローとなって,いまもその人気は衰えない。
 いっぽう木曾義仲は,たぐいまれなる武将であり,志なかばにして悲劇的な死をとげるという英雄の条件を有しながら,義経人気の陰にかくれて,英雄視されることはなかった。『大日本史』などは,木曾義仲を,「叛臣伝(はんしんでん)」に載せているほどである。
 徳川光圀にはじまる水戸徳川家編纂の『大日本史』は,皇国史観に貫かれたものであり,後白河法皇を一時幽閉した義仲を悪しざまに書いたのはやむをえない。しかし,朝廷と対立し,天皇や上皇をないがしろにして思うがままに振る舞った権力者は少なくない。義仲一人非難されるには当たらない。
 義仲の場合,義経に攻め殺されたことが英雄たりえなかった最大の理由であろう。義経を源平合戦最大の英雄とするとき,義仲は悪役にならざるをえないのだ。『平家物語』や『源平盛衰記』は,必ずしも義仲を悪人として描いているわけではない。むしろ悲運,悲劇の武将として,同情をもって語っている。だが都を占領して後白河法皇と対立するまでの描き方がよくない。教養のない粗野な人物で,人望もなく「将軍」にはふさわしくない武将としている。
 だが義仲の実像は,じつは不明な点が多く,ことに寿永二年(1183)の入洛以前は根本史料を欠き,詳かでない。義仲の生涯を語ろうとすれば,『平家物語』や『源平盛衰記』に頼らざるをえないが,これらはあくまでも文学作品である。史実を背景とした物語とはいえ,そこで述べられていることが史実の証明とはならない。
 義仲は,久寿元年(1154)に源義賢(みなものとのよしかた)の子として,武蔵国で生まれたとされる。父の義賢は,帯刀先生(たてわきせんじょう)と通称された人物で,源義朝の異母弟にあたる。義朝は頼朝や義経の父だ。義賢は上野国(群馬県)多胡郡と武蔵国(埼玉県・東京都)比企郡に勢力を持ち,比企郡大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)に館を構えていた。義仲はこの辺りで生まれたといい,嵐山町の鎌形神社の湧水が,「義仲産湯の井」と伝えられている。二歳のとき義賢が,義朝の長子義平(頼朝の兄)に殺され,義仲は斎藤別当実盛に抱かれて木曾山中に落ちのびて成人することになる。

常盤御前は美人で安産型

 常盤御前は,源義朝の愛妾で,たぐい稀なる美人であり,義朝の死後,三人の子供の命を救うために,やむなく平清盛の側女(そばめ)となった悲劇の女性と伝えられています。三人の子供とは,今若・乙若・牛若で,牛若がのちの源義経です。その義経が,華々しく活躍し,悲劇的な死をとげたことにより,母の常盤も記憶されることになったといえます。江戸時代の川柳子が,「子が愚なら貞女常盤の名は立たず」というように,生んだ子が歴史に名を残さなければ,常盤もまた無名のまま歴史の中に埋もれてしまったことでしょう。
 彼女がどれぐらい美人だったかというと,『義経記(ぎけいき)』に次のような話が載っています。九条院(近衛天皇の中宮)の侍女を公募したとき,一位となったのが常盤で,「洛中より容顔美麗なる女を千人召されて,その中より百人,また百人の中より十人,また十人の中より一人撰びいだされたる美女なり」というのです。一般の女性にとって,宮中に仕えることは,通常ではかなわぬ夢です。千人の応募者のなかで,第一次,第二次と厳しい審査を経て,最後の一人に選ばれたのが,常盤だったというのです。
 ところが九条院に仕えて間もなく,常盤は,警備の武士で源氏の棟梁であった源義朝の側女になってしまい,つぎつぎに三人の子供を生むことになります。しかし,三人目の牛若を生んで間もなく平治の乱が起こり,義朝は敗れて東国へ逃れる途中で殺されてしまいました。常盤は三人の子供を抱えて大和国へ落ちのびますが,捕まれば子供の命はありません。考えた末に常盤は,三人の子を連れて清盛に直訴(じきそ)します。自分が清盛の側女となることで,三人の命を助けてほしいと。
 その結果,常盤は清盛の愛人となり,子供たちは助かります。清盛は「情けの人」であったといわれ,義朝の嫡男である頼朝も殺さずに伊豆に流します。のちに頼朝や義経が平家を打倒したことを思えば,情けが仇になったということになります。
 さて常盤は間もなく,清盛の女子を生みます。その女子は後に,清盛の娘で高倉天皇の中宮となった健礼門院に仕えます。その後清盛は常盤を,大蔵卿といわれた藤原長成に再嫁させます。ここでも常盤は,男子(藤原能成)を儲け,その後に女子も生んでいます。
 常盤は,絶世の美女であったというだけでなく,女性として極めて健康に恵まれていました。お産で命を落とす女性が少なくなかった時代に,再嫁,再々嫁を繰り返し,つぎつぎに子供を生み,その子供たちがすべて成人しています。これは,極めて稀なことといわなければなりません。
 常盤がどういう晩年を送ったのかは,一切わかっていません。

新時代の先駆者・平清盛

 日本史のなかで,実際には勝れた人物でありながら,不当に悪者あつかいされてきた人たちがいます。平清盛はその典型です。
 「奢(おご)れる人も久しからず……猛き者も遂には亡びぬ」
 と『平家物語』に書かれたように,清盛は,一族一門だけの栄耀栄華を独占した専制者で,その奢りの果てに滅んだ「悪人」とされてきました。天皇や貴族をないがしろにした不忠者で,南都(奈良)を焼き払った神仏をも恐れぬ罰当たり者のレッテルを貼られ,また源氏の敵役となって憎まれ役を演じさせられました。
 しかし見方を変えれば,清盛は,貴族中心の古代社会を実力で打破し,中世武家社会への幕を開いた偉大な先駆者といえます。伝統と門閥がすべてといっていい古代社会の慣例に,徹底した合理主義と実力主義で立ち向かい,自らの地位を築いたのです。その生き方は,生産力と武力を共に持ちながら久しく貴族の風下に立つことを余儀なくされてきた武士たちに,大いなる希望を与えました。その結果が栄耀栄華なのです。やがて,武士の世が幕を開けることになります。
 ところが,皮肉なことに,武家社会の幕を開けたのは,平氏ではなく源氏でした。歴史は勝者によって創られます。源平合戦に敗れた平氏が,勝者源氏によって貶められたのは,やむをえません。
 清盛は元永元年(1118),平忠盛の長子として生まれました。忠盛は白河法皇に仕えた北面の武士です。母親は祇園女御(ぎおんのにょうご)といわれる女性ですが,忠盛の妻となる前,白河法皇に仕えていました。清盛が,じつは白河法皇の隠し子だという噂が流れたのはそのためです。
 清盛は,度量豊かで誰からも信頼され好意を持たれる人物だったといい,『十訓抄(じっきんしょう)』に次のような話が載っています。「清盛は,召使いの場違いな振舞いや冗談に対し,おかしくなくても笑ってやり,末輩でも人前では立ててやった」と。また後白河上皇と二条天皇の父子が対立すると,双方に気を使い,仲を取りもちました。
 いっぽう清盛は,迷信などを信じない合理主義者でした。干ばつのとき澄憲(ちょうけん)という僧が祈ったとき大雨が降り,人びとが賞讃しました。ですが清盛は,「五月雨(さみだれ)のころになれば日照りも止み雨が降るのは当然のこと。病人も時期がくれば治る。それをたまたまそのときに診察した者を名医ともてはやすのと一緒で,澄憲の手柄というのはばかげている」と笑ったといいます。
 貴族社会の排外主義を排し,兵庫に築港して対宋貿易を開始したのも清盛です。
 頂点に立った清盛が奢ったのは事実ですが,そこに至るまでの努力を見落とすべきではありません。

火事と喧嘩は江戸の華

 古代から,日本は火事の多い国です。日本の家屋は,石造や土造ではなく木造ですので,やむをえません。江戸時代も各地で火災は起きましたが,中でも江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように,江戸名物に数えられたほどです。これは,江戸の下町に燃えやすい民家が密集していたことと,冬期に強い北西の空っ風が吹いたからです。
 江戸っ子は気が短かく,何かというと「てやんでぇ」「べらぼうめ」と喧嘩になります。もっとも,その場かぎりで翌日には,けろっとしているのが江戸っ子です。日常ひんぱんにあった喧嘩と同じぐらい,火事も多く,何百軒あるいは何千軒もが焼けるという大火も八十数回に及んでいます。
 江戸の町の大半が焼け,何千人あるいは何万人もの死者が出るという大火災も少なからずありました。「振袖火事」の名で知られる明暦の大火(1657年)では,何と十万二千人もの死者が出ました。「八百屋お七の火事」として知られる天和の火事(1682年)では,三千五百余人が焼死しています。また,元禄十六年の「水戸様火事」(1703年),享保六年の大火(1721年),明和九年の「行人坂火事」(1772年),文化三年の「丙寅(ひのえとら)の大火」(1806年),天保五年の「甲午の大火」(1834年),安政の大地震による大火(1855年)などで,いずれも数千人に及ぶ焼死者を出しています。
 火事の原因の多くは火の不始末ですが,放火も少なからずありました。放火の罪は重く,死罪のうちで最も残酷な火刑です。生きたまま火で焼き殺すという刑罰で,八百屋お七が火刑に処せられたことは有名です。
 火事を消すのは火消しの役割りです。しかし,江戸時代に強力な放水車などありません。火消しの役割りは,もっぱら,周囲の風下の家を壊して延焼を防ぐことでした。町火消しは,鳶口(とびくち)を持って家を壊すので鳶の者といわれましたが,彼らは容赦なく多くの家を次々に壊しました。
 町火消しの制度を定めたのは,江戸町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)で,享保年間(1716~36年)のことです。二十町ごとに四十七の小組に分け,いろは四十七文字を組の名としました。ですが,「へ」「ら」「ひ」の三字は,語感がよくないというので省かれ,代わりに「百」「千」「万」を使用しました。その後本組が設けられて,町火消しは四十八組になります。
 なお火消しには他に,大名火消しと定火消しがありました。大名火消しは,幕府の命で各大名が一万石につき三十人の人足を雇ってつくられ,主に武家屋敷の消火,ことに江戸域に火が移らないよう,破壊消火活動をしました。定火消しは,明暦の大火後につくられ,旗本がこの任に当たり,人足たちは臥烟(がえん)と呼ばれました。

江戸の四大祭り

 日本には無数といっていいほどに神社があり,祭神もまちまちです。神話伝説上の神々から実在した人物,さらに山川草木から岩や石まで,ご神体は何でもありです。そうした神社が栄えてきた理由の一つに,祭りがあります。有名神社の大祭から,鎮守さまの村祭りまで,また境内で催される縁日など,祭りには日常から解放される庶民の楽しみがあります。
 江戸っ子の祭り好きは相当なもので,天下祭りの際などは,女房を質に入れてまで,というほどの入れ込みようでした。もちろん,八つぁんや熊さんの女房が質草になるはずはありませんが,借金をしてまで祭りに入れあげたのは事実です。
 天下祭りというのは,6月15日の山王祭と,9月15日の神田祭りのこと。いずれも,多くの山車(だし)や屋台などに守られた神輿(みこし)が江戸城内に入って,将軍がこれを上覧しました。そのために天下祭りまた御用祭りと呼ばれたのです。夏祭りと秋祭りですが(今の暦では7月と10月),氏子たちは夜を徹して山車や屋台を派手に飾りつけ,15日の夜が明けると一番山車から順に行列を整えて江戸の町を練り歩き,途中で神輿を迎えて江戸城中に入りました。その間,屋台の上では歌や踊りが演じられ,通りの家々は金屏風を立てたり,衣装を飾るなどして贅をこらしました。山車や屋台は各町ごとがそれぞれに工夫をこらしてしつらえるのですが,華美を競ってお金がかかり過ぎ,借金をしてまでという有様になります。このため,天和元年(1681)から両祭は,年ごとに交互に行なわれることになりました。
 江戸っ子が熱狂する天下祭りは,年に一度となったわけですが,江戸にはまだまだ祭りがありました。ふつう三大祭りというのは,二つの天下祭りに,浅草の三社祭りを加えたものです。5月18日に催された三社様の祭りも大いに賑わいました。また三社祭りにかえて深川八幡(富岡八幡宮)の祭りと天下祭りを併わせて三大祭りとする説もあります。浅草っ子と深川っ子でそれぞれに三大祭りの一つが違うわけですが,ひっくるめて江戸の四大祭りということで文句はないでしょう。
 なお深川八幡と神田明神の氏子も仲がよくありません。これは,元禄時代以降,深川八幡の境内で,たびたび成田山新勝寺の本尊の不動明王の出開帳(でかいちょう)が行なわれたから。このお不動様は平将門討伐に霊験があったという像で,神田明神は平将門を祀る神社だからです。
 四大祭りは今も続いています。ただし日時は昔と少し異なります。山王祭は6月15日を中心に一週間,神田祭りは5月15日前後の土日,三社祭りは5月17,8日前後の土日,深川八幡祭りは8月中旬の土日で,3年に一度が大祭となります。

お伊勢・稲荷に犬の糞

 「お伊勢・稲荷(いなり)に犬の糞」は,江戸の市中に多かったものの代表である。
 江戸時代も中期になると,生活文化の向上に伴い,旅行がはやった。その多くは寺社参詣の旅であった。というのは,旅行するにはパスポート(旅行手形)が必要であり,寺社参詣を名目にすると得やすかったからである。江戸市中には,各寺社へ参詣客を誘うための講社が数多くあった。いちばん多かったのが伊勢講で,次いで富士講や大山講など。札所巡りも盛んであった。信仰は二の次の物見遊山の旅ではあるが,寺社に参詣すればお札を貰ってきた。物見遊山のついでに家内安全や商売繁昌を祈願できればいうことはない。お札を神棚に飾ったり玄関に貼ったりした。そうしたお札のうち,どこの家にもあったのが「お伊勢さん」のお札であった。これには,わけがある。
 一生に一度は伊勢神宮に詣でる,という民間信仰が定着したのに加えて,抜け参りやお蔭参りもはやったからだ。抜け参りは,親や主人の許可を得ず,また通行手形もなしに伊勢参りをすることで,お蔭参りは,60年に一度行なわれた大集団による抜け参りである。着の身着のまま,なぜか柄杓(ひしゃく)1本を腰に差して,「ええじゃないか,ええじゃないか」と歌い踊って伊勢神宮を目指した。「お伊勢さん」のお札が,江戸のいたるところにあった理由である。
 江戸市中で最も多かった神祠は,お稲荷さんすなわち稲荷神社であった。江戸にかぎらず,稲荷神社は諸国にも多かった。現在でも,全国で3万社を超え,個人の屋敷地内の稲荷社も加えると,5,6万社はあるという。諸神社のうちで圧倒的な一位である。
 稲荷信仰の原点は京都の伏見稲荷だが,江戸ではやったのは,江戸中期に江戸町奉行の大岡越前守が,赤坂に豊川稲荷を勧請して以来のことである。お狐さんを祠るお稲荷さんは,またたく間に武家にも町人にも信仰を広げ,数多くの神社ができた。ちなみに稲荷神は御饌津神(みけつかみ)とも呼ばれる。農耕神であり食物の神様だ。それが,「みけつ」の者から三狐神と書かれるようになり,いつしか狐が神様になってしまった。狐の大好物として油揚げを供える風習は,おそらく江戸の豆腐屋が考え出して宣伝したことによると思われるが,なぜ「正一位大明神」なのかは不明である。
 最後は犬の糞。これはいうまでもなく,江戸に野良犬が多かったことによる。将軍綱吉による「生類憐みの令」のとき,幕府がつくった犬の収容施設に入れられた野犬の数は10万頭という。犬小屋の建築費だけではなく,餌代など莫大な費用がかかったが,幕府はそれを江戸の町民に犬扶持(いぬぶち)として負担させた。余計な施設をつくって増税するやり方は,今も昔も変わりない。