「狂雲集」を著した一休宗純

 「一休」というのは,煩悩(ぼんのう)と悟りのはざまで「ひとやすみ」をする,という意です。一休はまさにそのはざまの中で,天衣無縫な人生を貫きました。少年時代の頓智(とんち),長じてからはユーモラスで洒脱(しゃだつ)な人物像が定着しています。そうした一休のイメージは,江戸時代初期の寛文8年(1668)に刊行された仮名草子の『一休咄(いっきゅうばなし)』などによって作られました。
 実際の一休は,反骨精神を貫き,自由奔放に生きた室町時代の禅僧です。自ら「狂雲子」と号しました。
 一休が生まれたのは応永元年(1394),洛西嵯峨野(京都市郊外)の民家でした。父は後小松(ごこまつ)天皇,母は藤氏(とうし。藤原一族)です。とはいえ,時の天皇の皇子として,殿中の華やかな雰囲気の中で育てられたわけではありません。逆に皇子であることを秘し,ひっそりと育てられました。僧になることも,定められた運命でした。一休が,いつ天皇の子であることを知ったのか詳らかではありませんが,屈折した境遇のなかで育ったことと思われます。その間に,反骨精神と自由気ままな生き方が醸成されたことは,まちがいありません。
 少年時代のエピソードは,枚挙に暇(いとま)がありません。小僧たちが,毎日廊下のふき掃除でけんかになります。一つの水桶で争って雑巾を洗おうとするからです。一休は,すすぐ係を決め,日変わりで交替するようにして,滞りなく廊下掃除ができるようにしました。またあるとき,和尚が秘蔵していた水飴(みずあめ)を,小僧たちでなめてしまいました。気がついたら飴の壷は空っぽです。さあ大変。すると一休は,和尚が大切にしていた硯(すずり)をわざと割り,皆で死んで詫びようと思い,水飴をなめたけれど,まだ死ねませんといい逃れます。日ごろ和尚が,この水飴は大人には薬だが,子供には毒じゃ,なめると死んでしまうぞ,といっていたのを逆手に取ったのです。また,一休の評判を聞いた将軍足利義満が,一休を金閣寺に呼び,衝立(ついたて)の虎を捕えてみよといいます。すると一休は平然として縄を用意し,さあ捕えてみせますので虎を追い出して下さい,といい将軍をやりこめました。また「このはし渡るべからず」と書いた橋を渡れといわれ,「はし」ではなく真ん中を通って渡った……等々。
 一休が,近江国堅田の祥瑞庵(しょうずいあん)で,華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し,「一休」の号を授けられたのは,応永25年(1418),25歳のときでした。その一休が忽然と悟りを開いたのは,27歳のとき,闇夜に琵琶湖の湖上でカラスの鳴き声を聞いたからだといいます。その後一休は,まさに風狂奇行の禅僧として,五山派はもとより大徳寺派の禅僧に対しても,激しい攻撃を加えるのです。
 その風体(ふうてい)は,ぼろをまとい,木刀を腰に差し,尺八を吹きながら町を歩く,というものであったといいます。
 一休の詩集である『狂雲集』には,女性との愛欲や自らの風狂ぶりが,あからさまに綴られています。晩年は,森侍者(しんじしゃ。もりのじしゃ)と呼ばれる盲目の美女と,東山薪村(たきぎむら)の酬恩庵(しゅうおんあん)に住み,ここでも森侍者との赤裸々なセックスを多くの詩に詠んでいます。酬恩庵に住んだのが75歳。88歳で森侍者にみとられて入寂(にゅうじゃく)しました。