「百人一首」成立と歌かるた

 「百人一首」は,天智天皇に始まり順徳院まで,奈良時代から鎌倉時代にかけての,史上重要な人物百人の歌各一首で構成されている。選者は藤原定家。ごく私的な選集で,女婿の蓮生(れんしょう)入道に,色紙にして各歌人の絵(歌仙絵)を添え贈ったものという。各歌人の絵は,当代の似絵(にせえ=肖像画)の第一人者であった藤原信実とされる。とはいえ,鎌倉時代から室町時代にかけての「百人一首」で,歌仙絵のあるものは見当たらないのだという。信実の歌仙絵は,後世の付会と思われる。
 「百人一首」が「歌かるた」として広く流布するのは,江戸時代になってから。上の句と下の句がそれぞれに分かれ,上の句の読み札には歌仙絵が付されている。文字だけの取り札(下の句)を畳の上に並べ,上の句が読み上げられると競って取り合う。
 なお「かるた」はオランダ語のcartaが語源。カードやカルテも同義語である。16世紀後半から17世紀初頭にかけて,「天正かるた」や「ウンスンかるた」などが作られたが,元禄時代ごろから「百人一首」による歌かるたが流行(はや)るようになった。そこで,各和歌の珍解釈やもじり(パロディー)が,あれこれ登場することになる。
 珍解釈でよく知られているのが,落語の「ちはやぶる」。「ちはやぶる神代もきかず立田川 からくれないに水くくるとは」の歌意を,江戸っ子が知ったかぶりの男に尋ねる。男の言うには,「ちはや」は女郎の名前,立田川という相撲取りが「ちはや」に振られ,「神代」(同じく女郎)にも聞いてもらえない。やがて立田川は相撲をやめ豆腐屋になって成功する。そこへ落ちぶれたちはやが「おから」をもらいにやって来るが,立田川は昔自分を袖にしたちはやにおからをくれない。ちはやは,井戸に飛び込んで入水自殺する。水くくる,である。そこで,最後の「とは」とは何だ,と突っ込まれ,男は苦しまぎれに,「とは」は「ちはや」の元の名だ…。
 なお「ちはやぶる」は,「神」にかかる枕詞(まくらことば)。楠木正成は,「千劔(劍)破」の漢字を宛て,自らの山城の名とした。筆者の本名「千劔破」はそこから取った。もっとも今は「千早城」と書くようになったので,千劔破は何だか判りづらくなってしまった。  「百人一首」のもじりには,傑作なものが少なくない。例えば,「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただあきれたる顔(つら)ぞ残れる」「山里は冬ぞさびしさまさりける やはり市中がにぎやかでよい」など。皆さんも作ってみてはいかがですか。