『太平記』の謎をさぐる

 『太平記』は,全40巻からなる軍記物語です。『平家物語』と並ぶ,我が国屈指の戦記文学として知られています。二つの物語を比較すると,文学的には『平家物語』の方が勝れているといえます。「祇園精舎の鐘の声」で始まる文章は美しく格調があり,平家一門の盛衰を描いて,物語が一貫しています。対して『太平記』は,混沌とした時代史を記したもので,物語性ということになると『平家物語』には及びません。しかし,内乱期におけるさまざまな人間模様,また社会や政治に対する鋭い批判が記され,南北朝時代を知るうえで,極めて興味深い書となっています。誰が,いつ記したのでしょうか。
 ですが,その成立も作者も判っていません。今川了俊の『難太平記』によって,暦応元年(延元3年=1338年)から観応元年(正平5年=1350年)の間に,最初の形が成立したと考えられています。その後,何段階かにわたって書き継がれたり,添削されたりして,現在広く知られている形になったのは,応安末年から永和年間(1375年~79年ごろ)であるとされています。
 作者についてですが,『難太平記』によれば,慧鎮(えちん)上人また玄慧(げんえ)法印が『太平記』を語っており,物語の作成にも関わった可能性が考えられています。また『洞院公定(とういんきんさだ)日記』の中に,『太平記』の作者として小島法師の名が出てきます。こうした物語僧たちが『太平記』を語り,また話を削ったり加えたりしていったことは充分考えられますが,もとになった話は,誰が作ったのでしょうか。このうち慧鎮は,延暦寺系の律宗の僧で,北条氏の菩提を弔い,鎌倉に宝戒寺を建てたことで知られます。延暦寺は後醍醐天皇の帰依を受けていました。慧恵は,後醍醐の菩提を弔うための寺院を建立したいと考えていたようです。しかし後醍醐の冥福のために寺院を建てたのは,足利尊氏・直義で,開山は夢想疎石です。そこで慧鎮は,後醍醐鎮魂のための物語を書き,それが『太平記』の原本になったのではないか,ともいわれますが,真相は不明です。
 ともあれ『太平記』は,知識層にとって人気の高い読物となります。そこで,近世初頭に『太平記』の異伝や論評を集めた『太平記評判秘伝理尽鈔』が出されます。『太平記』をどう読むか,ということが記され,種々の説や論評が載り,武士層の必読書といわれますが,内容は複雑で難解です。そこで,これを読み解いて講釈する者たちが現れます。その筆頭が赤松法印という僧といわれますが,どのような人物であったかは不明です。ともあれ,そこから講釈師が登場し,講談が始まることになります。今は,『太平記』に限らずさまざまな軍記を語る講談,じっくり聞くとなかなか面白く,興味深いものです。ぜひ一度高座へ出かけてみませんか。