キリスト教を禁じて鎖国する

 江戸幕府における鎖国は,オランダ人を長崎の出島(でじま)に強制移住させた,寛永18年(1641)に始まりました。その後,安政元年(1854)に米国のペリーが来航し,日米和親条約が調印されて開国するまで,200年余の間,日本は鎖国していました。
 とはいえ,その間日本が世界から,まったく孤立していたというわけではありません。出島にはオランダの商館があり,少なからずヨーロッパの文物や情報が,幕府にもたらされていました。また,朝鮮とは国交が開かれており,中国とは交易がつづけられていました。
 幕府の草創期,家康は積極的に海外諸国との交易を推進します。しかし,宗教すなわちキリスト教の布教に関しては,取締まりを強化するのです。これは,家康の政治顧問であった金地院崇伝と天海が,共に仏僧であったことと関係が深いと思われます。
 慶長18年(1613)12月,すでに将軍は,2代秀忠となっていましたが,依然実権は家康が握っていました。家康はキリシタン禁教令を発布して,全国的にキリスト教徒の取締まりに着手するのです。
 そして,家康が75歳で没した元和2年(1616),2代将軍秀忠によって,家康以来の懸案であるキリシタン禁教令が発布されたのです。同時に,ヨーロッパとの商取引き地は,平戸・長崎の両港に限定されました。それまで自由であった国内での商取引きは,一切禁止されたのです。
 やがて3代将軍家光の代になり,いよいよ鎖国は加速されて,ついに寛永16年(1639)7月5日,17カ条の条文をもって,鎖国政策は完成しました。寛永10年から5段階にわたって鎖国令は発せられるのですが,その条文はほぼ似通っています。大まかに要約しますと,以下の通りです。
 第1条から3条までは,日本人の海外往来の禁止,第4条から8条までは,キリスト教の禁止および伴天連(バテレン)追放令,9条以下は,外国船との貿易取締まりの規定です。また寛永12年の令では,日本船の海外渡航と,海外在住の日本人の帰朝を絶対無条件で禁ずるのです。同13年の9月には,ポルトガル人やその混血児など287人をマカオに追放します。
 さらに寛永16年になると,それまでおとがめのなかったオランダ人や中国人に対しても,その居住地に制限を加えるなど断圧をします。この取締りに基づいて日本在住のオランダ人やその混血児など30数人がジャカルタに追放されました。その中にいたジャガタラお春の話は,よく知られています。ともあれ天文以来1世紀つづいたポルトガル船との交易は,こうして完全に禁止されたのでした。
 しかしオランダは,日本の対ヨーロッパ貿易の独占に成功し,中国も長崎を通じて交易していました。ですが,キリスト教を媒介として導入されかけたヨーロッパの合理的精神の芽はつみ取られ,中国からの漢籍の輸入も厳しく制限されてしまいます。鎖国は,結局前後215年にわたって続きましたが,そのために失なったものは少なくありません。また逆に日本独特の江戸時代の文化の発展をうながしたことも事実です。