ポルトガル船を禁じ鎖国を完成

 ポルトガル船が種子島(たねがしま)に来航したのは,戦国時代真っ盛りの天文12年(1543年)のことでした。ヨーロッパでは,コペルニクスが地動説を発表した年です。
 6年後の天文18年,フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航して,日本にキリスト教が伝来します。
 織田信長は,宣教師によってもたらされた知識や文物に,大いに興味を示します。また地球儀を見て,並いる日本人は理解できませんが,信長だけは,地球が丸いということを理解したといいます。信長こそは,唐(から=中国),天竺(てんじく=インド),そして日本以外の新しい世界と文化の存在を認識した最初の為政者でした。
 豊臣秀吉は,当初こそ信長のやり方を継承しますが,天正15年(1587年)6月,九州を平定すると,5ヵ条からなるキリスト教禁教令(伴天連追放令)を発し,さらに宣教師の追放令を出します。キリシタン信徒たちが,神社仏閣を破壊したりした行為を非難し,キリスト教を「邪法」として,その布教を禁じ,宣教師たちを追放したのです。しかしこの禁令では,神仏を妨げないかぎり,我が国と「きりしたん国」の往来と貿易は自由でした。
 秀吉は天正16年(1588年)7月,海賊禁止令を公布して,徹底した私貿易の取締りに乗り出します。そして文禄5年(1596年),「サンフェリペ号事件」が起きます。土佐に漂着したイスパニア(スペイン)船サンフェリペ号の船員が,キリシタン伝道は,国土侵略の手段であると語った事件です。
 これによって禁教が強化され,長崎において26人の信徒と宣教師が処刑されました。現在長崎には,26聖人の碑があり,キリシタン聖地の一つであるとともに,観光名所ともなっています。
 さて,徳川家康はキリスト教に対して,どう対応したのでしょうか。
 慶長5年(1600年)3月,オランダ船の「リーフデ号」が,豊後(ぶんご=大分県の大部分)に漂着します。これを機に,プロテスタントの国オランダ,イギリスが日本に進出することになります。リーフデ号の航海士ウィリアム・アダムスが,外交顧客として家康に仕えることになったのが,契機です。
 アダムスは,三浦按針(みうらあんじん)の日本名を得て活躍します。家康は,ポルトガル,オランダ,イギリスなど西欧諸国と,東南アジア諸国に対し,朱印船貿易に基づいて広く対応していくのです。しかしキリスト教に関しては,一貫して「邪教」観を持ちつづけます。二代将軍秀忠も,これを引き継ぎ,幕府は,キリシタン弾圧を強化していきます。同様に,海外との交易もせばめられていくのです。
 そして三代将軍家光の代になり,日本は,朝鮮と中国,長崎の出島を通じてのオランダを例外として,鎖国体制に成立させるのです。寛永18年(1641年)に確立した鎖国は,安政元年(1854年)に,ペリー艦隊来航のもとで日米和親条約(神奈川条約)が結ばれるまでの213年間,つづいたのでした。