一乗谷の戦い

 一乗谷(「いちじょうだに」「いちじょうがたに」とも)は,福井県福井市街の南東約10キロに位置する足羽(あすわ)川の支流一乗谷川によって形成された狭長な谷です。中世の室町時代から戦国時代にかけて,この谷間(たにあい)の地に,朝倉氏と朝倉一族の館,重臣たちの居館群,また中下層の家臣たちの武家屋敷,それに神社仏閣,そして多くの町屋が軒を連ね,長大な城下町を形成していました。その範囲は,およそ2キロに及びます。また,周辺の山々の各所に,砦(とりで)や堀切(ほりきり)が造られ,東方の標高470メートルの一乗城山(いちじょうしろやま)には,南北400メートルにわたって大きな山城が築かれていました。
 朝倉氏は,越前(現在の福井県)の守護であった斯波(しば)氏の重臣でした。応仁の乱(1467)のときに,斯波氏の内紛に乗じて強大化します。文明3年(1471)には,越前一国を支配下に収め,一乗谷へ城館を築いたのです。朝倉孝景(たかかげ)のときでした。そして孝景の孫の貞景が同族間の争いと一向一揆を鎮めることに成功して,領国支配を確立します。その子の孝景(前出の孝景のひ孫に当たります)は,足利幕府の要請を受けて,近隣諸国の内紛を鎮定するため,たびたび出陣して,後期の足利幕府の体制を維持するために活躍しました。
 しかし孝景の子義景のとき,朝倉氏は滅亡することになります。
 一乗谷は朝倉氏のもとで安定し繁栄します。そのため,京都での戦乱を逃れて,公家や文化人などがしばしば一乗谷を訪れました。このため,一乗谷では,華やかな文化が形成されたのでした。発掘された多くの青磁や白磁,また染付や甕や壷,また庭園や寺社の遺跡,石仏や石塔などからも,十分に一大文化の地であったことが偲(しの)ばれます。
 朝倉義景は,はじめは延景(のぶかげ)と称していましたが,将軍足利義輝(よしてる)から「義」の字を名前に使うことを許され,義景と名乗りましたが,当初は越後の上杉謙信と攻守同盟を結び,加賀の一向一揆と戦うために,何度も加賀に出陣しました。また将軍義輝が松永久秀に殺されると,義輝の弟義昭(足利第15代将軍。足利最後の将軍)を一乗谷に迎え入れて,久秀と対抗しました。しかし義景には,義昭を奉じて京に上る意志はありません。そこで義昭は,織田信長のもとに走ることになります。そして将軍になるのですが,今度は信長と戦うことになります。義昭は,本願寺や浅井長政,武田信玄らと反信長勢力を形成しますが,元亀元年(1570),浅井・朝倉連合軍が姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れ,以後じり貧となっていきます。
 そして天正元年(1573)8月,一乗谷は信長の猛攻を受けて灰燼に帰してしまいます。このとき一乗谷は,三日三晩にわたって燃え続けて壊滅,朝倉義景は大野の六坊賢松寺で自尽し,40年の生涯を終えたのでした。