三方ヶ原の戦い

 武田信玄が,2万5千という大軍を率いて甲斐府中(山梨県甲府市)を出発したのは,元亀3年(1572)10月のことでした。西上を果たして京都に武田の旗を立てる,すなわち天下掌握を目指しての出兵です。
 このころ,戦国大名たちの天下取りレースは,熾烈を極めていました。信玄・謙信・信長・秀吉・今川義元,それに若き家康らが,虎視眈耽と京都を窺っていたのです。なかで,最も天下人に近かったのが武田信玄です。ですが,信玄には病気という大敵がいました。記録によりますと,信玄はよく志摩の湯(湯村温泉)に逗留していますが,おそらく病気療養のためであったろうといわれています。その病いとは,結核と癌の2説があります。NHK大河ドラマとなった新田次郎の「武田信玄」では,結核説となっています。なおこの作品は,月刊「歴史読本」に15年にわたって連載され,同誌の編集長であった筆者が担当しました。
 さて,甲斐を出発した武田軍は,信州(長野県)の諏訪から伊那を経て,遠江(とおとうみ。静岡県)へと進撃を続けます。遠江に入った武田軍は,二俣城を攻略し,12月の下旬には天竜川を渡り,家康の遠江経営の拠点である浜松を目指します。なお二俣城の戦いでは,徳川方の本多平八郎忠勝が大活躍した話が,大久保彦左衛門が記した『三河物語』などに記されています。それによれば,武田軍は忠勝のことを,
「家康に過ぎたるものが二つあり,唐の頭(かしら)に本多平八」
 と誉めそやしたといいます。
 その後武田軍は,家康の籠る浜松城には向かわず,三方ヶ原台地に軍を進め,さらに下ろうとします。家康をおびき出すための陽動作戦です。浜松城の軍議では,優勢な武田軍に対して籠城すべし,という意見が強かったのですが,家康は,敵が浜松城を素通りして三河に侵入しようというのに,一矢も射ずに許すのは武門の恥辱であると,出馬に決したと,いわれています。このとき,徳川軍は織田信長からの援兵を加えて1万1千,武田軍は3万から4万(史料によっては6万)といい,圧倒的に武田軍が優勢でした。
 戦いは武田軍からの石つぶてで始められました。多くの石を用意していて,これを一斉に投げるというのは,有力な戦法でした。石ころを投げつけられて憤激した家康の軍勢は,挑発に乗って三方ヶ原へと攻めて行きます。しかし,戦いは武田軍の一方的な勝利で,家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。馬上,恐怖の余り糞尿をたれ流したといわれます。浜松城に逃げ帰ったときの姿を家康は絵師に画かせ,座右に置いて,いましめとしました。今もこの絵は,名古屋の徳川美術館に残されています。
 しかし,その家康が天下取りレースの最終的な覇者となり,武田家が滅亡したことを考えると,まさに歴史の綾といえましょうか。