上杉禅秀の乱

 応永15年(1408)初夏,足利義満は伝染病にかかり,51歳で亡くなってしまいました。とはいえ,将軍の地位が揺らいだわけではありません。義満の死は,すでに足利義持(よしもち)が将軍になってから15年目のことでした。しかし,義満が生存中,義持の将軍職は名ばかりでした。ことごとく義満が政務を司り,しかも義満は,義持の弟の義嗣(よしつぐ)をことあるごとに可愛がり,義持を疎(うと)んじ続けました。
 父義満の在世中は,冷たい仕打ちをされながら,口ごたえ一つ許されなかった義持でしたが,父が死ぬと,これまでのうっぷんをはらします。義満は生存中,死んだら「太上天皇」の称号を得るよう,いろいろ手を打っていたのですが,義持はその必要はなしとして称号を辞退します。また義満の正室北山院が病死したとき,義持が行った葬儀は,驚くほど簡素なものでした。さらに,両親が居住していた北山邸も,金閣など一,二の建物を残して,あとはみんな取り壊してしまいます。さらに,義満がすすめていた明(みん)との国交も,断絶させてしまうのです。
 ところが,重臣たちが次第に義持を圧迫し始めます。暗君の暴走をゆるしているわけにはいきません。義持は,自分のワンマンが押し通せなくなると,深酒をしたりして,乱れた生活を送るようになります。  このころ関東では,上杉氏が何家かに分裂して,お互いに反目し始めます。大別して四流となりました。それぞれ鎌倉の地名をとって扇谷(おおぎがやつ)・託間(たくま)・犬懸(いぬがけ)・山内(やまのうち)と呼ばれることになります。
 このうち犬懸上杉家と山内上杉家が,応永21年(1414)にはそれぞれ,上杉氏憲(うじのり=禅秀 ぜんしゅう)と上杉憲基(のりもと)の代となっていました。両家は深刻なにらみ合いを続けています。
 応永22年,上杉禅秀の家臣の越幡(おばた)六郎が,鎌倉公方足利持氏の怒りにふれて,突然領地を没収されてしまいます。禅秀はこの処分に不満を持ち,何とか持氏をなだめようとしますが,持氏はがんとしてこれを聞き入れようとしません。ついに禅秀は,病気だといって引きこもってしまいますが,それがますます持氏を怒らせます。そこで,ついに禅秀は,関東管領の職を投げ出してしまいました。こうした関東の情勢に目をつけたのが,京都で不満をかこっていた足利義嗣です。
 義嗣らの応援を得て,上杉禅秀が挙兵したのは応永23年(1416)1月2日のことです。不意をつかれた持氏は,ろくな防戦もできず,禅秀に鎌倉を奪われてしまいました。しかしすぐに,幕府の命令を受けた駿河守護の今川範政(のりまさ)と越後の守護上杉房方(ふさかた)の大軍が鎌倉を攻めます。結局上杉禅秀は,鎌倉雪ノ下の屋敷に籠り,一族42人,従者42人とともに自殺してしまいました。これが上杉禅秀の乱です。