下剋上する成出者

 戦国時代の幕明けとなった応仁の乱後,文明17年(1485)の山城国一揆(やましろのくにいっき)に続いて,長享2年(1488)には加賀の一向一揆が守護を倒して,「門徒持ち」の国をつくります。権力は将軍から守護へ,守護から守護代・国人(こくじん)へ,そしてさらに地侍・民衆へと自然に下降分散して,下剋上(げこくじょう)の社会状況が深まっていきました。
 下剋上というのは,下位の者が上位の者に剋つ(かつ)ことです。すなわち家来が主人を倒したり,仕用人が支配者を殺したり追放したりして身分が転倒する状態で,この時代,下剋上が多くなったということです。
 「下剋上」の語は,鎌倉時代以降,栄んに用いられますが,建武の新政の混乱期に書かれた「二条河原落書」に「下剋上スル成出者(なりでもの)」と出てくることで,よく知られています。「二条河原落書」は,建武元年(1334)8月・京都の二条河原に立てられた政治批判の落書です。「落書」というのは,「落首」とほぼ同義語で,政治や社会を風刺したり批判したりした短文で,人目につきやすい場所に立てたり貼ったりしたものです。いわば近現代の「壁新聞」といったらいいでしょうか。二条河原の落書の多くは七五調で調子よく,物尽くし形式で作られています。「此比(このごろ)都ニハヤル物」で始まり,全八十八句から成ります。一部を紹介しますと。
 「此比都ニハヤル物,夜討強盗謀綸旨(ようちごうとうにせりんじ),召人早馬虚騒動(めしうどはやうまからそうどう)」
 に始まり,
 「天下一統メツラシヤ,御代(みよ)ニ生レテサマザマノ,事ヲミキクソ不思議共,京童(きょうわらしべ)の口スサミ,十分一ソモラスナリ」
 と結ばれています。また,
「器用ノ堪否沙汰モナク,モルゝ人ナキ決断所」
 と,新政府の役所のいいかげんさを批難したり,
「犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ,ホロフルモノト云(いい)ナカラ,田楽ハナホハヤル也」
 と,犬田楽は関東ではやっているようだが,いずれ滅(ほろ)ぶものといいながら,それでもなぜかはやっていると,世相を風刺し,さらに,
「京鎌倉ヲコキマセテ,一座ソロハヌエセ連歌,在々所々の歌連歌,点者にナラヌ人ソナキ,譜第非成ノ差別ナク,自由狼藉ノ世界也」
 と,そのころ京都でも関東でも大流行していた連歌(れんが)について,多くはエセにすぎない,とケチをつけているのです。「京童」の口を借りて,建武政府の実態と矛盾を,しっかりと批判しており,なかなかの知識人たちが,寄り集まって作ったものであろうと,考えられています。なお,河原は自由の場ですが,二条河原は,後醍醐天皇の政庁(二条富小路)に近い場所でした。この落書を作り,掲げた知識人たちの思いが伝わってきます。