京都方広寺の鐘銘事件

 京都東山方広寺は,天正14年(1586年)に豊臣秀吉が,豊臣一族の繁栄を願って建立したものです。ところがこの寺がのちに,豊臣家を滅ぼすことになります。秀吉は考えもしなかったにちがいありません。
 方広寺は,慶長元年(1596年)閏7月の大地震(慶長大地震)で壊われました。このとき,6丈3尺(約19メートル)の巨大な木像仏もつぶれました。やがて秀吉が没し(慶長3年),方広寺は壊われたままになっていましたが,慶長7年,家康は豊臣母子(淀殿と秀頼)に,再建をすすめます。母子は秀吉の遺志を継ごうと,その気になり,今度は金銅仏にすることにして,着工します。しかし工事なかばで火災にあい,堂宇は全焼して仏像も溶け落ちてしまいました。とはいえもはや大仏建立は,豊臣母子の悲願です。
 慶長14年から再建工事が開始され,同19年の春に,やっと完成するのです。費用は莫大なもので,秀吉が大坂城にたくわえ大金塊を使うのですが,現在の価格に直すなら100億円ぐらいといわれます。さすがに,淀殿は妹の徳川秀忠夫人を通じて,幕府に資金の援助を求めますが,もちろん幕府は応じません。大坂城の金塊は,万一の場合に備えた軍用金です。いざ戦争となれば,多くの場合,お金を持っている方が勝ちます。家康は何とかそのお金を減らそうと,大仏殿建立をすすめたのです。お金を貸すはずはありません。世間では,「さすがの太閤の貯金もこれで払底したろう」と噂されたといいます。
 ともあれ,慶長19年8月,盛大に大仏の開眼供養が行なわれることになりました。供養の日をめぐっても,豊臣方を代表する片桐且元と家康の間で,すったもんだがあったのですが,家康は,さらなる難題をつきつけてくるのです。新築なった方広寺の大鐘に,不吉な文字があるというのです。
 その文字というのは,鐘銘に刻された「国家安康」と「君臣豊楽」という熟語です。前者は,家康の名を二つに切ってこれを呪うものであり,後者は,豊臣氏を君としてこれを末ながく楽しむという意味だというのです。
 もちろんこじつけですが,これを考えたのは金地院崇伝といわれています。林羅山も,「鐘銘は,徳川家を呪い,豊臣家の繁栄を祈る気持をたくみに書きこんだものだ」と記しています。いずれも,御用学者の曲学阿世(きょくがくあせい)といわなければなりません。鐘銘を書いたのは,当時の高名な学者清韓文英(せいかんぶんえい)です。
 当時の落首に,「鐘の銘韓長老の諸行ぞや無常となりて大坂滅亡」というのがあります。
 ともあれ幕府の批難に,大坂城から片桐且元が弁明のため駿府に飛んでいきますが,20日あまり待たされて,結局家康との面会をゆるされませんでした。それだけではなく,家康は,「秀頼が江戸に参勤するか,淀殿が人質として江戸にくるか,または秀頼が大坂を出て地方に国替するか」という難題をつきつけるのです。家康とすれば,大坂攻めのための,いいかえれば豊臣家を滅亡させるための口実を得るためですから,あえて無理難題をつきつけたわけです。結果として,家康の計画は成功し,大坂冬,夏の陣を経て,豊臣家は滅亡することになります。