人取橋(ひととりばし)と摺上原(すりあげはら)の戦い

 18歳の政宗が伊達氏17代の当主となったのは,天正12年(1584)のことです。翌年,二本松を領していた畠山義継が,政宗の父,伊達輝宗の館に投降してきました。面談が終り,畠山軍は引き揚げるのですが,このとき,とんでもないことが起こります。畠山の兵が,なんと輝宗を拉致(らち)して逃げるのです。政宗は,兵を従えてこれを追いました。
 畠山軍は阿武隈(あぶくま)川の渡し場に着きました。ここを渡れば二本松領です。川を渡らせるわけにはいきません。そこで政宗は苦渋の選択の末,一斉射撃を命ずるのです。そうすれば父親の輝宗も射ち殺すことになります。このとき輝宗が,ためらわずに射て,と叫んだといいます。ともあれ,伊達軍の一斉射撃によって切羽つまった畠山義継は,輝宗を殺し,自らも切腹して果てたのでした。こうして,政宗の仙道方面への侵出は,父輝宗の生命と引き替えで,開始されたのです。
 義継の戦死によって,反政宗の連合軍が結成され,佐竹義重を中心に約3万に及ぶ大軍が安達郡に侵入し,人取(ひととり)橋(福島県本宮市荒井)での遭遇戦となったのです。政宗の軍は約8千であったといわれますが,伊達成実(なりざね)の別働隊1千の猛政によって,連合軍を追います。連合軍の死者は961人,伊達軍は380人余といわれています。
 天正17年6月,政宗は,会津磐梯山の麓,猪苗代湖の北に広がる摺上原に大軍を進めました。相馬氏や岩城氏に攻められた三春の田村氏を救援するためです。いっぽう,伊達の大軍が迫った猪苗代城主の猪苗代盛国は,決断を迫られます。蘆名氏に所属しているのですが,目前に迫った伊達軍と戦って勝ち目はありません。結局,伊達軍に内通したのです。
 6月5日,政宗は2万3千騎を従えて,安子島(あこがしま)から6里(約24キロ)ほど進んで,猪苗代に陣を布きました。いっぽうの蘆名軍はおよそ1万6千騎。劣勢なうえに,田村攻めの進軍途中に,いったん黒川まで引き返し,いちど兵を整え直して猪苗代に進軍したので,かなり疲労していました。しかし,猪苗代湖岸と磐梯山麓の二方面で両軍は遭遇戦となります。この日,強い西風が吹いていました。東から攻める伊達軍は,目もあけられず,苦戦を強いられます。ところが午後になって風向きが逆転します。戦況も逆転し,ついに伊達軍は蘆名義広の軍を摺上原から一掃します。蘆名軍の戦死者は約1800(一説に2500),対する伊達軍は約500,伊達政宗の完勝でした。
 戦いの翌年,正月を黒川城で迎えた政宗は,「七種(ななくさ)を一葉に寄せてつむ根芹」の発句を詠みます。白河・石川・岩瀬・田村・安積・安達・信夫の仙道7郡を1身に収めたことを誇っているのです。こうして政宗は,奥州の王というべき立場に立つのですが,すでに時遅く,秀吉による天下制覇が進んでいたのでした。