伊達騒動。原田甲斐,伊達安芸を斬殺

 伊達騒動(だてそうどう)というのは,江戸時代前期の寛文11年(1671年),奥州仙台藩の伊達家で起こった「お家騒動」のことです。
 江戸時代の中期にはすでに,歌舞伎狂言の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」となって人口に膾炙(かいしゃ)し,多くの人たちに知られていました。現代になってからは,山本周五郎が「樅(もみ)の木は残った」という小説に仕立て,さらに1970年には同作がNHK大河ドラマとなったことによって,ドラマとしても小説としても大ヒットしたのです。
 では,事件の経緯を見てみましょう。
 仙台藩主伊達綱宗(つなむね)が幕府から隠居を命ぜられたのは,万治3年(1660年)のことでした。江戸小石川堀の普請に際して不行跡があったというのです。100万石の加賀前田家に次ぐ日本で二番目の大藩である仙台藩伊達家62万を継いだのは,何と僅か2歳の幼児亀千代(のちの綱村)でした。しかし2歳の幼児に藩政を司ることなど,できるはずはありません。そこで叔父の伊達兵部少輔宗勝(だてひょうぶしょうゆうむねかつ)と,庶兄(しょけい)の田村右京宗良が,それぞれ3万石を分知されて後見人となり,また幕府の国目付が毎年伊達家に派遣されて,藩政が行なわれたのです。
 当初,権勢をふるっていたのは,伊達家の奉行奥山大学常辰(つねとき)ですが,伊達兵部は寛文3年(1663年),奥山大学を罷免してしまいます。そして,幕府老中の酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行の原田甲斐(はらだかい)や側近たちを重用(ちょうよう)して,反対派を大弾圧するのです。17名が斬罪切腹となり,120名が処分を受けました。
 その後,仙台藩伊達家のごたごたは,まだまだ続きます。寛文6年には亀千代毒殺未遂のうわさが立ち,医師の河野道円父子が殺害され,寛文8年にも似たような事件が起きます。これらの事件の背景には,伊達兵部らの陰謀があるのではないかという,うわさが立ち,兵部への非難が高まります。またそのころ,伊達一門の伊達安芸宗重と同じく宗倫が,知行地をめぐる境界線争いを続け,伊達兵部の裁定に不満を持つ者たちが,何と幕府に上訴するのです。
 寛文11年,大老酒井忠清のもとで審議が開始されることになりました。ところが,同年3月27日,酒井忠清邸での審議のさなかに,兵部派の敗北をさとった原田甲斐が,やにわに伊達安芸を斬殺し,乱闘のなかで自らも斬死してしまうのです。兵部と田村右京は,当然のことですが,任を解かれ配流・閉門という処分を受けました。
 以上が事件のあらましですが,この伊達家のお家騒動は,実録本や講談,歌舞伎,人形浄瑠璃などに広く取り上げられることになります。それらの作品群を総称して「伊達騒動物」といいます。それらのなかで,現代につづく名作が「伽羅先代萩」というわけです。