北畠親房と『神皇正統記』

 延元3年(暦応元年=1338年)の8月,伊勢国の大湊(三重県伊勢市)を船出した50余艘の大船団は,北畠親房(きたばたけちかふさ)と結城宗広(ゆうきむねひろ)の計画によるものです。新田義貞の死によって勢いを失った南朝方の北畠親房らは,東国(関東・東北)に南朝の新たなる地盤を築くため,後醍醐天皇の皇子である義良(のりなが)親王や宗良(むねなが)親王と共に,東国を目指したのです。
 だがこの計画に,天は味方をしませんでした。船団が天竜灘にさしかかったとき,暴風におそわれてしまうのです。船隊は四散し,多くの船が行方不明になったと,『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は記しています。そうしたなか,義良親王は伊勢湾の篠島(しのじま)に漂着し,宗良親王は遠江(静岡県)の白羽(しろわ)の港にたどり着き,北畠親房は常陸国(茨城県)の東条浦に打ち上げられました。
 この船団の計画者の一人結城宗広は,伊勢国の安濃津(あのつ)に吹き戻され,ほどなくして病没しました。すでに八十歳近かったといわれています。
 結城宗広は,足利尊氏・新田貞義が挙兵したころ,大塔宮(護良親王)の令旨(りょうじ)をうけて後醍醐天皇に味方し,建武の新政で北畠顕家(親房の嫡男)のもと奥羽の重鎮となった人物です。顕家とともに二度も京都に攻め上り,南朝を支えた老将として知られますが,『太平記』はなぜか,宗広は地獄へ落ちたと記します。また,死に臨んで,「自分を弔うのに供仏も施僧も,また念仏も読経もいらぬ。ただ朝敵の首を供えよ」と遺言したと記します。
 いっぽう常陸に漂着した北畠親房は,この地の豪族小田治久(おだはるひさ)を頼って小田城に居住します。親房はこの小田城で,『神皇正統記』を書きました。完成したのは,小田城のあとに移った関城(茨城県筑西市関館)です。
 『神皇正統記』は,北畠親房が,後醍醐天皇の死と護良親王即位(後村上天皇)の報を受け,幼帝後村上天皇のために書いたもの,とされています。
 『神皇正統記』の主調は,書き出しの一節に要約されていると,いわれています。
 「大日本は神国なり。天祖はじめて基(もとい)をひらき,日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこのことあり。異朝にはそのたぐひなし。この故に神国と云ふなり」
 というものです。「天祖」は国常立尊(くにとこたちのみこと),「日神」は天照大神(あまてらすおおみかみ)をいいます。日本はそうした神によってつくられた「神国」であり,神々の子孫である天皇が統べるのが正しい。しかし日本はいま南朝と北朝に分かれている。どちらが正統であるかは,三種の神器を所有しているかどうかで決まる,といいます。三種の神器については,次回に詳しく述べます。ともあれ,いま三種の神器は,後醍醐天皇と共に吉野にある。だから吉野朝が,正統な皇統であると北畠親房はいうのです。では吉野朝(南朝)とは,どのようなものだったのでしょうか。三種の神器の謎と共に,次回をお楽しみに……。