南北朝合一と皇位継承

 明徳3年(元中8年=1392年)閏10月5日,南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が渡され,南朝と北朝が合一されました。元弘元年(元徳3年=1331年)に後醍醐天皇が,三種の神器を持って京都から奈良へと逃れ,南北朝時代となってから61年目のことです。その間,たび重なる戦乱で,民衆は大いに苦しめられました。もとはといえば,天皇家内部の皇位継承をめぐる権力争いによるものです。それでは,少し歴史を遡って,その発端から見ていくことにしましょう。
 後嵯峨天皇が子の後深草天皇に譲位したのは,寛元4年(1246年)のことです。このとき後深草は満3歳,当然後嵯峨上皇(後嵯峨院)が院政を布くことになりました。その後正元元年(1259年)後嵯峨院は,後深草を退位させ弟の亀山天皇を皇位に就けます。後深草天皇は17歳になっていましたが,院政を布くことはできません。父帝の後嵯峨院が,依然として院政を布いていたからです。
 後深草上皇と亀山天皇の兄弟帝は反目し合うようになります。その後に続く皇統をどうするのか。その皇位継承をめぐる兄弟争いに割って入ったのが幕府です。幕府の総帥は執権北条長時です。
 北条長時の斡旋によって,後深草上皇の系統と亀山天皇の系統が,交互に皇位に就くことになりました。後深草上皇の系統を持明院(じみょういん)統,亀山天皇の系統を大覚寺(だいがくじ)統といいます。しかし,この両統は,ことあるごとに対立し,のちの時代に至るまで尾を引くことになるのです。
 すなわち,吉野に南朝を立てて,あくまでも幕府と対立した後醍醐天皇は大覚寺統で,幕府を後盾に京都にあった光厳・光明・後光厳らの天皇が持明院統です。
 さて,61年ぶりに南北朝が合一したのには,わけがあります。足利義満という強大な将軍が登場し,乱世に終止符が打たれたからです。三種の神器の授受は,閏10月5日,土御門東洞院の皇居で,足利義満の命令のもと,執り行なわれました。
 こうしてひとまず神器は北朝に引き渡されましたが,合併はあくまでも対当であり,双方共に,互格の勢力を持つはずでした。しかし実際は,南朝が北朝に吸収されてしまったのです。後亀山天皇に対する北朝の待遇はひどいもので,合体後1年間も,何の連絡もしませんでした。その間後亀山帝は大覚寺で静かな時を過ごしていたといいます。足利義満がこの天皇を天龍寺に招いて対面したのは,1年以上を経た明徳5年2月のことです。その月末,太上天皇の尊号が送られましたが,形式だけのものです。
 こうして形ばかりの太上天皇となった後亀山帝は,嵯峨野の一隅で余生を送ることになります。ほとんど読書の日々で,学者の吉田兼敦を招いて『日本書紀』の講義を受けたりもしています。
 ところで両統迭立(てつりつ)の問題はどうなったのでしょうか。約束からいえば,持明院統の後小松天皇の皇太子には,大覚寺統の皇子が立つべきです。しかし,足利義満の生前には,両統いずれからの立太子もありませんでした。結局,義満の死後4年を経て,応永19年(1412年)に後小松天皇の子である称光天皇が即位しました。この後は北朝系が続き,結局南朝は滅んでしまったのです。しかし,南朝と北朝のどちらが正しいのかという論争は,近代に至るまで尾を引くことになります。