古河公方と堀越公方

 嘉吉(かきつ)の乱が起こったのは,嘉吉元年(1441)6月のことです。播磨の守護赤松満祐(みつすけ)が,足利6代将軍義教(よしのり)を殺します。将軍に殺されることをおそれた満祐が,先手を打って将軍を殺したのですが,結局満祐も,細川・山名氏らの幕府軍に攻められて,一族と共に自殺させられてしまいました。これが,嘉吉の乱です。
 その1ヵ月前,すなわち嘉吉元年5月,結城(ゆうき)合戦で捕えられた足利持氏の遺児3人のうち,安王と春王の少年二人は,京都に護送される途中,義教の命令で殺されてしまいます。ところが3人目の永寿王(えいじゅおう)だけは殺されずにすみます。というのは,京都で嘉吉の乱が起こったために,永寿王の処置にかかわっているひまがなかったからです。こうして永寿王は細川持之(もちゆき)のもとで育ちます。彼が,後の古河公方足利成氏(しげうじ)です。
 細川持之は嘉吉2年に亡くなりましたが,嘉吉の乱後,関東の政情は安定しません。何とか,信頼できる鎌倉公方を置く必要がありました。そこで持之は,その大任を永寿王に担わせる決心をして,亡くなったのでした。
 しかし,永寿王が鎌倉にやって来たのは,持氏の死後11年目のことでした。宝徳元年(1449)の8月に京都を発ち,翌月に鎌倉に到着したのです。関東はここに,やっと新公方を迎えたのでした。やがて永寿王は元服し,将軍足利義成(よししげ。義政の初名)の一字をもらって,成氏と名乗ったのです。
 関東の諸氏の多くは,新公方を大歓迎します。結城氏,里見氏,千葉氏,宇都宮氏などです。成氏は,万事これらの諸氏に相談しました。ところが,山内(やまのうち)と扇谷(おおぎがやつ)の両上杉氏は,面白くありません。両上杉は,関東管領として公方を補佐してきた伝統と誇りを持っています。しかも,成氏の相談相手はいずれも,かつての両上杉の敵です。
 こうしたことから,足利成氏と両上杉の間は,次第に険悪になっていき,ついには戦い始めます。幕府の関東安定の意図は,もろくも崩れてしまったのです。結局幕府は上杉家に加担し,駿河の守護今川範忠(のりただ)に,成氏討伐の命令を下します。今川軍が鎌倉に攻め入ったので,成氏は下総(しもうさ。茨城県)の古河に逃れ,範忠は鎌倉を焼き払って帰国しました。康正元年(1455)6月のことです。
 こうして関東の地は,成氏対両上杉の戦場となりました。幕府は最後の手段として,将軍義政の弟政知(まさとも)を派遣します。政知は廃虚となった鎌倉を避け,伊豆の堀越(ほりこし)に居館を構えました。これが堀越公方です。政知は成氏を討ちますが,勝敗は決せず,関東は,いつ終わるとも知れぬ長期戦の地となったのでした。