吉田兼好と『徒然草』

 吉田兼好は,鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて活躍した,歌人で随筆家です。夢想疎石と同時代の文人で,代表作である『徒然草(つれづれぐさ)』は,よく知られています。
 本名は卜部兼好(うらべかねよし)で,のちに出家したとき,兼好を「けんこう」と音読して法名としました。卜部家が吉田を称するようになったのは,室町時代になってからです。したがって「吉田兼好」という呼称は正しくありません。江戸時代になってから,まちがって吉田兼好と書かれるようになり,その呼称が流布して,まちがったまま今日に至っている,というわけです。
 卜部家はもともと朝廷の神祇官,すなわち天皇家の祭祠を司った家柄です。平安時代の中期,兼延(かねのぶ)のとき,一条院から「兼」の字を賜って,以後代々名前に「兼」の字をつけるようになりました。
 兼好の父は兼顕(かねあき)といい,治部少輔(じぶしょうゆう)を務めました。また長兄は天台宗の大僧正慈遍(じへん)となり,次兄の兼雄(かねかつ)は民部大輔を務めました。兼好幼少期は,何もわかっていません。十代のころでしょうか,久我(こが)家の家司(けいし)を務めたと推定されていますが,はっきりしません。その後朝廷に仕え,官人として蔵人(くろうど)を経て,左兵衛佐(さひょうえのすけ)に至ったことが,わかっています。
 その間に,二条為世(ためよ)について和歌を学び,多くの公卿や廷臣に接して有職故実(ゆうそくこじつ)の知識を身につけたことが,わかっています。また祖父の代から関わりの深かった堀河家の諸大夫を務めました。このままいけば,中級官人として,つつがなく生涯を終えたであろうと思われます。
 ところが何故か,兼好は出家してしまいます。正和2年(1313)ごろのことですが,何があったのでしょうか。『兼好法師家集』のなかに,つぎのような歌があります。
 「さても猶(なお)世を卯(う)の花のかげなれや遁れて入りし小野の山里」
 この歌によって兼好が遁世して住んだ所が,京都の東郊,山城国山科小野荘(京都市山科区)であったことがわかります。
 さて,『徒然草』は,文保元年(1317)ごろから元弘元年(1331)ごろの間に成立したと考えられています。兼好が小野の山里に,すっかり落ち着いてから,10数年をかけて,「つれづれなるままに日暮し硯(すずり)に向かひて,心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば,あやしうこそ物狂ほしけれ」
 と書きつづったものです。内容は,兼好の見聞談,感想,実用知識,また有職故実に関わることなど多彩です。どちらかといえば,人世論的な書といえますが,根底にあるのは,仏教的な厭世(えんせい)思想です。
 兼好はこの随筆を,貴族の男子の読物として書いたと思われますが,歌人や知識人たちに愛読されました。戦国時代にも読み継がれて近世に至りますが,江戸時代には,多くの版本が出て,町人たちにも広く読まれました。