喫茶の歴史と村田珠光

 喫茶の歴史は奈良時代にはじまります。大和の室生寺や般若寺の近くで,奈良時代から茶が栽培されていたことが,知られています。しかし,平安時代には,喫茶の風習はほとんど見当たりません。喫茶が復活したのは鎌倉時代で,栄西(ようさい)が「喫茶養生記」を著しています。ですが同書は,タイトルからも判る通り,茶を医薬用として,疲労回復や眠気ざましに用いることを記したものです。京都の栂尾(とがのお)は銘茶の産地として有名ですが,栄西が宋から持ってきた茶の種を,明恵(みょうえ)上人が植えたのに始まるといわれています。
 やがて茶畑は各地に広がっていき,室町時代になると,盛んに茶会が開かれるようになります。また茶を飲んで品種や産地を当てる遊びが流行(はや)ったりします。茶寄合は華美になり,酒肴が饗(もてな)され,歌舞音曲がついたりしました。およそ風情とは縁遠いものでした。
 足利義政は,同朋衆の能阿弥(のうあみ)たちと,静かな茶会をあみ出します。書院で,いろいろな芸術品を鑑賞しながら,茶を飲み合うのです。やがて農村や庶民の間にも簡素な茶会が流行っていきます。こうした茶会にヒントを得て,新しい茶道を開いたのが,村田珠光(じゅこう)です。
 珠光は,応永29年(1422),大和国(奈良県)に生まれました。若いとき,奈良興福寺の末寺である称名寺に入りましたが,茶を好み,闘茶(とうちゃ=賭け茶)に夢中になって寺を追われてしまいます。その後放浪のすえ,京都大徳寺の真珠庵に落ちつき,一休宗純と知り合い,一休のもとで参禅するようになります。そして,禅院での茶湯(ちゃとう)の所作から,点茶の本意を悟ったといいます。もっともこの所伝は,後世の潤色であろうといわれています。
 珠光は,農民のあいだに広まっていた簡素な茶会をヒントに,書院の茶室を屏風で仕切ってせまくします。さらに後には,四畳半ひと間の田舎家に似せた茶室を作り,そこで茶を点てました。使用する茶道具も,宋で作られた名品などは使用せず,ごく普通の茶器を用い,部屋の飾りもできるだけ簡素にし,作法も簡略化しました。精神的な深みと,簡素のなかのささやかな美を,モットーとしたのです。「素につき,我執を去って茶に徹する,それが極意だ」と考えたのです。
 こうした珠光の茶の湯は,京都の下京に住んでいた息子の宗珠によって,さらに洗練され,やがて千利休らのわび茶につながっていきます。ともあれ,村田珠光は,茶を点てて飲むという一連の所作を,茶道という一つの芸道に育て上げたのでした。