嘉吉の乱

 正長元年(1428)正月,足利義持は重病となりました。枕辺に集まった管領以下有力大名たちは,次期将軍をどうするのか義持の意見をうかがおうとします。しかし何も決めずに義持は亡くなってしまいました。そこで,管領の畠山満家・山名時煕(ときひろ)・三宝院満済らが相談し,結局はクジ引きで,義持の弟である青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)義円を立てることに決します。義円は還俗(げんぞく)して義宣(のちに義教=よしのり)となって,室町幕府第6代将軍となりました。
 しかし,そのころの世情はきわめて不安定でした。そのうえ,鎌倉公方の足利持氏が,義教の将軍就任に大いに不満を持っています。持氏は自らが将軍職につくことを強く望んでいました。当然のことながら,持氏は将軍義教と対立していきます。いっぽう,南朝の遺臣たちは,亀山天皇の皇子である小倉宮を将軍に擁立(ようりつ)しようと計っています。そして,この年(1428)の秋から翌年の春にかけて,未曽有(みぞう)の大一揆である「正長の土一揆」が起こることになるのです。
 さて,将軍義教の治世は,室町時代を通じて将軍の権力が最も強かったときです。義教は専制的な強権をふるって,自分の意にそわない者たちを容赦なく処断しました。義教の将軍職に反対しつづけた鎌倉公方持氏に対しては,持氏と対立する関東管領の上杉憲実(のりざね)を支援して,永享11年(1439),ついに持氏を鎌倉に攻め滅ぼします。これが「永享の乱」です。このあと結城氏朝(ゆうきうじとも)が,持氏の遺児である安王と春王をたてて,義教に対抗します。しかし,幼い安王・春王も殺されて結城氏は討滅されてしまいました。嘉吉(かきつ)元年(1441)4月のことで,「結城合戦」といわれています。
 義教は,京都の公家たちも容赦しませんでした。所領を没収されたり,あるいは配流(はいる)されたり,蟄居・籠居を命ぜられた者は70余人にのぼりました。さらに義教は,永享7年(1435)に比叡山延暦寺の根本中堂も焼き払ってしまいます。比叡山は,最澄(さいちょう)以来の,王城鎮護の法燈を伝える名刹ですが,義教にとっては関係ありません。自らの意にそわないからといって,焼打ちにしてしまったのです。
 こうした専制的な強圧政策は,守護大名たちにも及びました。家督や所領を没収された守護大名は数多くいます。播磨・美作・備前三国の守護であった赤松満祐は,はじめは義教に重用されましたが,次第に遠ざけられます。いつ義教の矛先が自分に向けられるかわかりません。
 嘉吉元年6月24日,満祐は,結城合戦勝利の賀と称して,京都の西洞院二条の赤松邸に義教を招きます。そこで猿楽の宴のさ中,義教を暗殺するのです。ただちに満祐は,本国の播磨に下り,足利直冬の孫である義尊を迎えてこれを奉じ,幕府に対抗する態勢を整えます。
 7月に入るとすぐに赤松追討の軍が発せられます。一進一退の攻防がしばらく続きますが,8月も半ばを過ぎると,山名持豊(宗全)の軍勢が赤松勢の守りを崩していきます。そして9月10日,ついに満祐は,籠っていた山城の城中で自刃し,逃れた満祐の嫡男教康も捕えられて殺され,ここに赤松氏は滅亡しました。この一連の騒動が「嘉吉の乱」です。