外様大名に参勤交代を命ずる

 参勤交代とは,江戸時代,各大名が隔年ごとに江戸に参勤する制度をいいます。参観交替とも書き,寛永12年6月21日の『武家諸法度』第2条に,「大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤」と定められ,正式に制度化されました。
 それ以前,織豊政権下では,織田信長は服属した大名を,岐阜域・安土城に参勤させました。豊臣秀吉は,大坂城・聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)・伏見城の周辺に諸大名の邸宅を置き,その領国との間を往復させました。また秀吉は,大名の妻子の在京・諸家臣とその妻子が城下に集中することを,全国的規模で強制して,参勤交代制の雛形を作ったのです。
 しかし,すべての大名家が参勤交代したわけではありません。御三家(水戸・尾張・紀伊の徳川家。家康の9・10・11男を藩祖として成立した,大名家のうちで最も格の高い藩)のうちで水戸徳川家は江戸に常住していました。すなわち定府(じょうふ)大名です。参勤交代する必要はありません。また老中・若年寄・奉行なども定府大名でした。
 いっぽう,対馬(つしま)の宗(そう)氏は三年に一勤,蝦夷地(北海道)の松前氏は六年に一勤でした。いうまでもなく,あまりにも遠隔地だからです。
 また,参勤交代を義務づけられたのは,大名だけではありません。交代寄合である旗本三十余家(表札衆・那須衆・美濃衆・三河衆など)も参勤交代をしなければなりませんでした。交代寄合というのは,3千石以上の無役の旗本で,参勤交代をするものたちをいいます。
 享保7年(1722),幕府は財政窮乏を打開するために,各大名から石高1万石につき百石の上米(あげまい)を徴収します。その代わりに,在府期間を短縮しました。しかしこれは,参勤交代制の根幹にふれる対策でしたので,間もなく旧に復することになります。
 幕末になりますと,内外の情勢が緊迫化します。そこで,文化2年(1862)には,一橋慶喜(よしのぶ)や松平慶永(よしなが。春嶽=しゅんがく)らによる幕府改革で,大名は3年に1年,または100日の在府。また,その妻や嫡子は,在府・在国自由となりました。それまで大名の妻子が江戸定住を強いられたものは,人質の意味もあったからです。
 しかし,こうした大名政策は,幕府の大名統制力の低下によるものにほかならず,結局,幕末の倒壊を早めただけに終わったのでした。
 本来,参勤交代の制度は,幕府体制による幕府の政治的基幹として,諸大名の地方割拠の形勢を抑制して中央集権の実をあげるのに,絶大な効果があったのです。いっぽう諸大名は,江戸と領国との二重生活によって,繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。とくに遠隔地の外様大名は,多大な負担を強いられてきました。
 ですが,水陸交通の整備,宿場町などの発展,江戸文化の地方伝播・庶民文化の発達等,プラス面も少なくありませんでした。