大力無双だった畠山重忠

 源平の争乱を経て源頼朝が鎌倉幕府を樹立する過程で,武蔵武士が果たした役割は,大きなものでした。その武蔵武士の代表的な一人が畠山重忠です。大力無双で剛直一途な人物と伝えられ,いっぽう歌舞音曲(かぶおんぎょく)に通じ,誠実で思いやりのある武将であったとも伝えられています。
 その重忠のハイライトは,一の谷の戦いにおける名場面です。鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおとし)のエピソードがそれです。源義経以下が,急坂を一気に駆け下って一の谷の平家の陣を急襲したとき,重忠は愛馬をいたわり,担いで下ったというのです。重忠のやさしさと大力を伝える話として有名ですが,もちろん史実とはいえません。
 重忠が,いつどこで生まれたのかは正確には判っていません。武蔵二俣川(横浜市)で悲劇的な最後をとげたとき42歳であったといい,逆算すると長寛2年(1164)の生まれということになります。生まれはおそらく,畠山庄であったと思われます。畠山庄は,埼玉県大里郡川本町(現 深谷市)の大字畠山の地で,そこに重忠の父畠山重能(しげよし)の館があったと考えられています。熊谷市の西方およそ10キロ,秩父の山地が背後にひかえる荒川南岸の台地です。幼少期に関しては不明ですが,重忠はおそらく,北武蔵の山や川を背景として,剛直な武蔵武士に成長したものと思われます。
 いっぽう重忠は,今様(いまよう)を歌い鼓の名手でもあるなど,音曲にすぐれた才能を持っていたことが知られています。あるいは少年時代,父重能の出仕に伴って上京し,都(みやこ)で育った一時期があったのかも知れません。
 『平家物語』の名場面のひとつに,「宇治川の先陣争い」があります。このとき重忠は乗馬を射られたので,徒歩(かち)で渡河しようとしました。すると,これも馬を流された大串重親(おおぐししげちか)という武士が,流されまいと重忠にしがみついてきました。すると重忠は,やにわに大串を抱えて,岸辺に投げ上げたというのです。また『源平盛衰記』は,このあと京都で戦った重忠が,巴御前の鎧の袖を引きちぎった話をのせます。一の谷の戦いは,このすぐ後のことです。
 重忠は,平家滅亡後,頼朝に近侍しますが,音曲の才を愛でられ,また頼朝の乞いで,腕自慢の力士と相撲をとり,投げ飛ばして喝采を浴びたりもしました。
 しかし頼朝の没後,二代将軍源頼家に仕えた重忠の立場は微妙なものとなります。北条一族によって幕府の功臣が次々に排され,頼家さえも殺されてしまいます。そして,元久2年(1205),執権北条時政の妻の讒言(ざんげん)により,重忠は謀反の疑いをかけられ,菅谷の館を出て鎌倉に出頭しようとする途中,待伏せしていた北条軍に襲われ,殺されてしまうのです。