大坂冬の陣へ,鐘名事件

 徳川秀忠に将軍職を譲り,駿府に隠居しとはいえ,家康こそが揺るぎのない天下人でした。しかし,その家康にとって,唯一心配事がありました。大坂城に君臨する豊臣秀頼の存在です。太閤秀吉の遺児である秀頼の存在は,決して小さなものではなかったのです。秀頼を立てて徳川幕府と対抗しようという,旧豊臣方大名たちが,少なからずいたからです。
 そのうえ秀頼は,太閤秀吉が貯えた莫大な財産を有していました。大坂城の地下には,金銀がうなっていたといいます。財力はイコール兵力でもある。どれだけの兵が集められるかには,財力がかかっているのです。
 家康は何とかこの金銀を消費させようと,秀頼に寺社の造営や修理をすすめます。山城国(京都府)や大阪,近江(滋賀県)を中心に,秀頼造営の寺社が数多くあります。かなりの金銭が必要であったと思われますが,大坂城の蓄財はびくともしませんでした。そこで家康は,方広寺(ほうこうじ)大仏殿の再興を秀頼にすすめます。
 方広寺大仏殿は,慶長元年(1596)に地震で破壊されたままになっていたものを,慶長7年に再興にかかりました。しかし,完成直前に失火によって灰燼(かいじん)に帰してしまいました。家康が人をつかって放火したのではないかとも噂(うわさ)されました。そして慶長13年,家康は秀頼に対して,再び造営をうながします。太閤殿下の冥福のため,豊臣家の隆昌と秀頼の武運長久を祈るため,というのが造営の理由です。しかし,豊臣家の財源を減らすことが目的であることは,いうまでもありません。
 この事業で膨大な経費がかかり,「太閤御貯えの金銀払底」と『当代記』に記されているほどです。さすがの豊臣家も,財産の多くを遣い果たしてしまったのです。取りあえず家康の目的のひとつは叶いました。あとは豊臣家とどう戦うかです。理由もなくいきなり攻めたのでは世間は許しません。戦いの口実をつくる必要がありました。
 秀頼が,片桐且元ら30名ほどを引き連れて上洛したのは,慶長16年(1611)のことでした。二条城で秀頼と対面した家康は,大変上機嫌であったといいます。本多正信は,「秀頼は愚鈍だと聞いていたが,なかなか賢明なお人ではないか」と語っています。それは家康も同じでした。立派で身体も大きく賢明な人物となれば,いいかえれば徳川家にとって危険な人物ということになります。この頃の落首に,つぎのようなものがあります。「御所柿は独(ひとり)熟して落(おち)にけり木の下に居て拾う秀頼」。家康はすでに老齢であり,このままだと何もせずに秀頼の天下となるだろうというのです。
 家康とすれば,至急大坂城を攻め滅ぼさなければなりません。しかし理由が必要です。
 慶長19年の夏,春に完成した方広寺大仏殿の開眼(かいがん)供養の日を迎えることになりました。その供養のありかたを巡って,幕府側は,あれこれと難くせをつけるのですが,きわめつけは,方広寺の巨大な梵鐘の鐘名でした。当時の名僧である清韓文英(せいかんぶんえい)による名文でした。それに,五山の長老たち林羅山(はやしらざん)ら曲学阿世(きょくがくあせい)の学者たちが,ケチをつけるのです。文章の中に「国家安康」と「君臣豊楽」という文言を見つけるのです。前者は国家が安泰であること,後者は君も民も楽しく,という意味にほかなりません。しかるに,前者は家康の名を分断しており,後者は豊臣氏が栄えるという意味だというのです。かくて幕府は,秀頼に難題をつきつけることになります。一大名として江戸に参勤するか,国替えしてどこかの地方の城へ行くか,母の淀殿(淀君)を人質として江戸に送るか,といういずれも秀頼というより大坂方としては飲めぬ条件です。かくして,大坂冬の陣が始まることになります。