天草の乱とキリシタン禁制

 江戸時代初期の寛永14年(1637年)から翌年にかけて,肥前国(熊本県)と,同唐津藩の飛地肥後国(同)天草の地で,大規模な百姓一揆が起こりました。
 一揆勢の首領は天草(益田)四郎時貞。まだ十代半ばの少年でした。キリシタン一揆とされますが,宗教的な意味合いは濃くありません。たしかに,一揆勢の多くはキリシタンでしたが,教義をめぐる争いが一揆に発展したわけではありません。当初,一揆勢の要求は,あくまでも重税に対する抗議と,年貢減免等を求めた百姓一揆でした。天草の乱として知られますが,歴史用語としては「島原の乱」です。
 寛永14年の10月25日,一揆は島原半島南部に端を発し,翌日には島原城を攻めます。あわや落城というほどの猛攻でした。島原藩では,藩主松倉勝家が参府中(参勤交代で江戸詰め中)でした。ともあれ島原藩では,藩主に急使を出すと共に,近隣諸藩に救援を求めました。しかし諸藩は,幕府の指示を待って動きませんでした。一揆勢は,つぎつぎに寺社を焼き,27日には島原城を猛攻したのです。一揆は島原藩全域に拡大していきました。
 このころ,天草でも益田四郎(天草四郎)の出身地大矢野島を中心に一揆軍が蜂起し,島原勢と合流します。3~4千人となった彼らは,本渡(ほんど)での戦いで富岡城代の三宅藤兵衛重利を敗死させ,さらに天草地方のほぼ全域を一揆に巻き込んで,11月19日から4日間,富岡城を攻撃するのです。しかし,落城寸前まで追い込んだのにもかかわらず,ついに本丸を抜くことができずに,撤退を余儀なくされたのでした。
 一揆の報が江戸にもたらされると,幕府は,キリシタン一揆として,事態を重視します。そこで幕府老中の板倉重昌(しげまさ)を上使として,佐賀・久留米・柳河の三藩に出動を命じ,重昌も島原に赴くのです。さらに幕府は,重ねて上使として,老中の松平信綱を派遣します。これを知った板倉重昌は,信綱の到着前に何とか一揆を平定しようと,寛永15年1月1日,強引な総攻撃を命じ,自らも戦場に赴いて,討死してしまうのです。
 いっぽう一揆勢は,2万数千人。といっても,老若男女合わせての人数です。
 1月4日,松平信綱は着陣すると,戦術を変えます。無理攻めをせずに,兵糧攻めに転ずるのです。その間,投降勧告,オランダ商館による砲撃,金掘役を使った爆破計画などで,一揆勢を揺さぶり続けます。そしてついに,2月28日・29日の総攻撃で一揆勢を破ります。幕府側に寝返った絵師の山田右衛門作(えもさく)一人を除いて,一揆勢は全員が殺されました。
 1990年ごろの秋,遠藤周作さんと一揆勢が籠った原城跡を訪ねたことがあります。城跡には大きな穴がありました。「ここに籠っとんたんや」遠藤さんはいいます。「真冬に着るものものなく,ここで皆が肩を寄せ合っとんやろな」「それにしても,オシッコやウンチはどうしたんやろ」籠城戦では,いつもそのことが気になるといいます。あまりにも日常的なことだから,記録には残りません。しかし廃城となっていた原城に籠った一揆勢は2万7千7百数十人といいます。毎日の排泄物だけでも,厖大な量であったに違いありません。戦いの勝ち敗けや,戦術・戦略ではなく,最も人間的な日常を思う遠藤さんに,教えられたことを思い出します。
 ともあれ幕府は,この後,禁教を強化し,農民統制を強め,ポルトガルとの貿易禁止に踏み切って,鎖国へと向かっていくことになるのです。