太田道灌と江戸城

 太田道灌が江戸城を築いたのは,長禄元年(1457),道灌25歳のときといいます。その10年後に京都で応仁の乱が起こり,戦国時代の幕が開きます。
 道灌の築城以前,江戸郷には,平安以来の名族江戸氏の居館があったといいます。ですが,居館の位置など,江戸氏の遺構はまったく判っていません。それどころか,じつは,道灌時代の遺構も残こされていないのです。とはいえ,当時とすれば大城郭で,室町時代後期における関東有数の名城であったろうと思われます。
 文明年間(1469~87)に江戸城を訪れた禅僧の正宗龍統(しょうしゅうりゅうとう)や万里集九(ばんりしゅうく)の記録によれば,自然の地形を利用した壮大な城で,石垣はまだありませんが,三重の構造を持っていたことが判ります。城内に静勝軒(せいしょうけん)と名づけられた道灌の館があって,西に富士,東に海,南に原野が眺望できたといいます。いまの皇居内の富士見櫓のあたりが静勝軒跡と考えられています。
 太田道灌は,戦国時代初期の関東における有数の武将であると同時に,第一級の文化人でもありました。京都や鎌倉から禅僧や文化人を盛んに招いて,歌会を催すなどの文化イベントを,たびたび行っています。もちろん江戸城は軍事拠点でしたが,いっぽう一大文化サロンでもあったのです。また,城下では毎日のように市が開かれ,諸国の物資が行き交っていました。江戸の地は,水陸交通の要衝(ようしょう)であり,道灌のころすでに,相当な賑わいを見せていたのです。
 徳川家康が入城したとき,江戸の地は葦(あし)の茂る海辺の寒村であった,というのは,伝説にすぎません。
 江戸と江戸城の出発点は江戸氏,発展の基礎を築いたのが道灌です。その後江戸の地は,およそ100年間,関東に君臨した後北条氏(小田原北条氏)の重要な拠点でした。だからこそ家康は,秀吉に協力して後北条氏を滅ぼした後,自ら望んで江戸に入ったのです。秀吉に従ってやむなく葦の茂る寒村に入国したわけでは,ありません。
 とはいえ,江戸城を日本最大の城郭につくりかえ,江戸を日本最大の都市に発展させたのは家康であり,子の秀忠です。しかしその基礎は,100年以上も前に太田道灌によって,しっかりと築かれていたのです。
 太田道灌は,永享4年(1432)に,扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の重臣太田道真(どうしん)の子として相模国(神奈川県)に生まれました。幼時より鎌倉五山に入って学問に励み,20歳のころには五山無双の学者になったといわれました。しかし時代の流れに従って道灌は,父と共に扇谷上杉家に仕え,武将としての道を歩くことになります。
 道灌は,武将としての才能にも恵まれ,「道灌がかり」という築城の名手でもありました。江戸城につづいて武州岩槻城や河越城(ともに埼玉県)も,道灌の築城によるものです。また攻め取った城も多数にのぼるといわれています。