室町幕府と細川政元

 室町第9代将軍足利義尚(よしひさ)は,延徳元年(1489)三月に,六角氏退治のため出陣中の近江で,ぽっくりと死んでしまいます。まだ24歳でした。
 足利義政の弟義視(よしみ)は,このことを逃亡中の美濃で知り,子供の義稙(よしたね)を連れて,急いで上京して来ました。我が子義稙に,第10代の将軍職を継がせるためです。前から義視を目の敵にしていた日野富子は,これに大反対ですが,翌年正月に義政が亡くなって,とりあえず義視が第10代将軍につきます。ところが,義視もその翌年に亡くなり,将軍義稙が一人残されることになってしまいました。
 そのころ都(京都)で,もっとも権勢をふるっていたのが,細川政元です。政元は細川勝元の子です。管領となり,摂津(大阪府)と丹波(京都府)の守護を兼ねていたのは,親の七光りによるものです。政元は初め,神妙に若い将軍義稙を補佐していたのですが,将軍が長じてくると,二人は衝突するようになります。
 政元は,堀越公方足利政知(まさとも)の子で僧になっていた清晃(せいこう)を還俗(げんぞく)させ,足利義澄(よしずみ)として,将軍にしようとします。義稙はこれを知って,河内の守護畠山政長に庇護(ひご)を求めました。
 政元にとっては都合の悪いことになりました。政長が義稙をかついで,管領の地位を奪いに来るのが目に見えていたからです。そこを政元はすかさず,赤松政則に命じ,政長を攻めて自殺させ,義稙を京都に連れ戻して,臣下の邸に幽閉したのでした。
 こうして政元は,義澄を将軍にまつり上げ,思うままに力を振るうことになります。将軍義澄は,自らの力の無さをなげき,ひそかに,等持寺にある先祖の足利尊氏の木像に,将軍の威令を取り戻すための経文をささげたりしました。
 いっぽう,政元に押し込められていた前将軍の義稙も,脱出して越中の神保長政(じんぼながまさ)を頼ります。そこで,政元打倒の兵を諸国につのります。自分こそが本当の将軍であると。義稙は,越前で打倒政元の兵を挙げ,近江に攻め入りました。しかし逆に政元の軍に敗れてしまいます。そこで,中国地方の大勢力である周防(すおう)の守護大内義興(よしおき)の懐に飛び込んだのでした。
 いっぽう京都では,政元の専断ぶりが目にあまるようになります。自分でかつぎ出した将軍義澄とも,しばしば衝突しました。それだけではなく,家臣たちからさえ,うらみを買うようになりました。政元が手足とたのんだ家臣の薬師寺元一(もとかず)が,政元の養子の澄元(すみもと)をたてて反乱を起こしたのは,永正元年(1504)9月のことです。決戦には至らず和睦しましたが,今度は政元のもう一人の養子澄之(すみゆき)が反乱を起こします。その結果,養父政元を攻め殺してしまいました。
 権勢並ぶ者のなかった政元も,結局はあっけない最期をとげたのでした。