室町時代の始まりと足利尊氏

 室町時代というのは,いつからいつまでをいうのでしょうか。その線引きはあいまいで,すぐ明確に答えられる人は,そう多くはないでしょう。
 広義には,鎌倉幕府が滅亡した元弘3年(1333)から,織田信長が将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたとき(天正元年=1573)までの,約2世紀半をいいます。狭義には,その時代の前期を南北朝時代,後期を戦国時代として,その両時代に挟まれた時代をいいます。すなわち,南北朝合一が行われた明徳3年(元中9年=1392)から,応仁の乱が開始されて(応仁元年=1467)戦国時代に突入するまでの時代です。
 室町の名は,足利三代将軍義満が永和(えいわ)3年(1377),京都の室町に御所を営んだことに由来します。その御所は,賀茂川の水を引いて大きな池をつくり,四季折々の花木や草花を植えた寝殿造りの豪壮な邸宅で,「花の御所」あるいは「花亭」と呼ばれました。  足利尊氏によって「建武式目」が制定されたのは,建武3年(1336)11月のことです。幕府を開くにあたっての根本方針を定めたもので,全17カ条から成ります。聖徳太子の憲法17条を意識して作られたものです。
 そのなかに,過差(かさ。ぜいたく)をいましめたもの,群飲佚遊(ぐんいんいつゆう。群れて飲食し遊び呆けること)を制すべきこと,また狼藉をしずめるべきことなどが記されています。こうした条令を出さなければならなかった当時の情況は,前回の二条河原の落書に見る通りです。ともあれ尊氏は,南朝の後醍醐天皇と和睦し,北朝の光明天皇が即位した直後に,「建武式目」を定めて京都に幕府を開いたのです。しかし,翌月(建武3年=延元元年の12月),後醍醐天皇はひそかに吉野に移り,また南北朝は分裂してしまいました。
 幕府を開いたとはいえ名ばかりで,尊氏は,征夷大将軍につくことができません。南朝方の新田義貞が健在で,北陸で戦いを繰り広げていたからです。尊氏が立てているのは北朝です。南朝と北朝は,手を結んだり離反したりしていますが,いずれにしても尊氏と義貞は不倶戴天の間柄です。
 尊氏が,征夷大将軍として正式に幕府を開くことができたのは,「建武式目」を定めた翌々年の暦応(りゃくおう)3年(1338)8月のことでした。なぜかといえば,7月に新田義貞が戦死したからです。義貞は,離反した平泉寺の衆徒を討とうとして北陸に兵を進めていましたが,流れ矢に当たって,あっけなく死んでしまいました。38歳でした。そのすぐ翌月に,尊氏は,北朝から初めて征夷大将軍に補任(ぶにん)されたというわけです。
 伊勢国の大湊(おおみなと。三重県伊勢市)から,50余艘の大船団が船出したのは,翌々年(延元3,暦応元年=1338)8月,すなわち尊氏が幕府を開き「建武式目」を定めたときのことです。さて,何故(なにゆえ)の大船団か……。