家康,征夷大将軍となる

 慶長5年(1600年),天下分け目の関ヶ原合戦に大勝した徳川家康は,いよいよ天下人への道を歩み始めます。もはや家康に対抗できる勢力はいません。とはいえ,大坂城には,秀頼を頂天に頂く豊臣政権が,厳然として続いていました。関ヶ原の戦いは,その政権下における五大老筆頭の家康と,五奉行筆頭の石田三成による主導権争いでもあったのです。
 三成は,あくまでも豊臣政権を維持しようと考えていました。しかし家康は,形の上では豊臣政権を立てていますが,実質的には,いよいよ徳川の時代が始まった,と考えていたに違いありません。
 家康は慶長6年の1月,東海道への伝馬(てんま)制度を整備します。京と江戸を結ぶ重要な街道を,徳川氏の管理下に押さえたということです。また,徳川氏の譜代の家臣たちを,次々に関東や東海の大名に封じます。そして3月,家康は大坂城を出て,京都伏見の自らの城に移るのです。同時に,関東地方を検地します。自らの覇権の地を,京・大坂から距離を置いた関東の江戸にしようと考えていたからに他なりません。この年の10月,家康は江戸に帰っています。
 しかし,翌年1月には再び伏見に戻ります。島津氏の薩摩・大隅・日向の所領を安堵し,朝廷に赴いたり,二条城と伏見城を修復したりします。6月には交趾(コーチまたはコーシ=現在のベトナム北部)の船が備前にやって来て,家康に孔雀・象・虎などを贈っています。佐竹氏を水戸から秋田へ転封したのも,この年のことです。またこの年に,中山道にも伝馬制を設けています。さらにこの年,佐渡や石見(いわみ)の鉱山から,多量の金銀が採掘されました。それらもまた,徳川氏の財政を支えたことはいうまでもありません。
 さて,慶長8年1月1日,家康は62歳の新春を迎えます。そして1月21日,家康のもとに,勅使の権大納言広橋兼勝が訪れました。家康を征夷大将軍に補任(ぶにん)するという内旨を伝えに来たのです。家康は使者に,黄金三枚と小袖ひとかさねを贈っています。それから3週間後の2月12日,家康は後陽成(ごようぜい)天皇の勅使である参議勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ)から,将軍宣下(せんげ)を受けました。その内容は,右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奬学(じゅんなしょうがく)両院別当に任じ,牛車(ぎっしゃ)・兵仗(へいじょう)をゆるすというものでした。これほど多くの宣旨を同時にもらったのは,史上徳川家康だけです。
 「鹿苑日録」(ろくおんにちろく=京都鹿苑院の僧の日記で,戦国史の重要史料)によれば,その日は早朝から雨でしたが,午前8時ごろには晴れたということです。日録は,内府(家康)が将軍宣下を受ける日なので,天も雨天を晴天にしたのであろう,と記します。
 そして3月21日,家康は衣冠束帯(いかんそくたい)姿で参内(さんだい)し,将軍拝賀の礼を行なったのでした。また3月27日には,勅使を迎えて将軍宣下の賀儀が行なわれました。こうして家康は江戸に幕府を開き,以後265年間続く,徳川15代将軍の初代となったのです。