将軍・管領の泥仕合い

 永正4年(1507)6月,突然,権勢並ぶ者のなかった細川政元が殺されてしまいました。殺したのは政元の養子の一人細川澄之(すみゆき)。澄之の実父は九条政基です。
 澄之は,ついでに,政元の養子で義理の兄に当たる澄元(すみもと)まで殺そうとします。しかし危機を察知した澄元は,近江国の甲賀郡へ難を逃がれて事無(ことな)きを得ました。ともあれ澄之は,細川政元を除き,強引に細川家の嫡流(ちゃくりゅう)を継いだのでした。ところが間もなく澄之は,一族の細川高国(たかくに)に殺されてしまいます。
 こうしたごたごたがあって,細川政元のあと目を継いだのは,近江から京都に帰った澄元でした。
 いっぽう大内義興(よしおき)の庇護下にあった前将軍足利義稙(よしたね)も,将軍復帰の機会を狙っていました。そこへ,細川家内部が,政元が殺されて,あと目をめぐって揉めているという情報が入ります。好機到来とばかり,大内義興は足利義稙をいただいて軍を起こします。そのころ細川高国は細川澄元と揉めて伊賀に引き上げていましたが,大内義興の軍が義稙を立てて堺に上陸したことを聞いて,これを機に京都に攻め上ろうとしました。そこで将軍義澄と細川澄元らは,近江へと逃げます。
 いっぽう伊賀で機会を狙っていた高国は,堺で義稙を出迎えます。義稙はなんと15年ぶりに京都に戻ったのでした。そして,義稙は将軍の位にも返り咲きます。いっぽう細川高国は,細川宗家を継いで,管領職に任命されます。時に,永正5年の夏のことでした。
 しかし,ほどなくしてまたも争いが起こります。永正8年,細川澄元が,細川高国を追い出すための軍を上げます。播磨の守護赤松氏らに助けられた澄元ですが,高国は大内義興と共に京都船岡山で戦い,大勝利を収めます。澄元が再び京都に攻め入ったのは,9年後の永正17年(1520)のこと。高国はいったん近江に落ちますが,軍を立て直して京都に攻め帰り,澄元の軍を阿波に追いました。間もなく澄元は失意のうちに死亡し,前将軍義澄は船岡山の決戦直前に死んでしまいました。
 こうして将軍位と管領職をめぐる争いは,足利義澄・細川澄元の死によって,30年ぶりに落ちついたのでした。天下は,管領細川高国のものとなります。しかしそうなるとまた,高国と将軍義稙が権威を張り合うようになります。すると義稙は将軍職を放棄して,淡路に引き込もってしまいました。すると高国は,かつては敵であった前将軍義澄の遺児亀王丸を将軍につけます。これが12代足利将軍義晴です。
 このように,将軍家と細川家の入り乱れた家督争いは,まさに泥仕合いの様相を見せて,収拾がつかなくなります。義晴は将軍とはいえ,まったくの傀儡(かいらい)にすぎません。争いは,まだまだ続くことになります。