小牧・長久手の戦い

 この戦いは,天正12年(1584年),尾張の小牧(こまき)・長久手(ながくて)(愛知県小牧市と長久手市)を中心に豊臣秀吉と徳川家康の8ヵ月にわたる合戦をいいます。
 織田信長が本能寺の変で没したことにより,いち早く明智光秀を討った秀吉が,次なる天下人として次第に勢力を拡大していきます。これに待ったをかけたのが,徳川家康です。家康は,信長の子信雄(のぶかつ)を味方に誘い,秀吉の勢いを止めるだけはでなく,息の根を止めようとしたのでした。信雄は信長の子であり,織田政権を継承する立場にあります。しかし賤が岳(しずがたけ)の戦い(天正11年)以来,秀吉が大きく勢力を伸ばしていました。秀吉は,本能寺で信長と共に討たれた信長の長男信忠の子供,といってもまだ赤ん坊の三法師を抱いてきて,この子が織田家を継ぐべきだというのです。赤ん坊に継げるはずはなく,後見人である秀吉が,織田家を牛耳る,すなわち信長に代わる天下人になるということにほかなりません。これに対して家康は,信長の次男の信雄を立てて,秀吉に対抗したのです。
 秀吉も家康も,一応は信長の孫や子を立ててはいますが,自らが次なる天下人を目指していたのは,いうまでもありません。
 池田輝興(てるおき)と森長可(ながよし)は,始めは徳川方につきますが,秀吉側に寝返って尾張の犬山城を奪取します。このため秀吉側が,はじめは有利に展開しますが,家康は森長可を撃破して,3月中旬,小牧山に砦を築くことに成功します。小牧山は,独立した丘陵で,戦術上の要地でした。さらに家康は外交戦術を用います。根来寺(ねごろじ)の衆徒と雑賀(さいか)の一揆衆に秀吉軍の腹背を衝(つ)かせ,本願寺の勢力を味方につけ,さらに越中の佐々成政(さっさなりまさ)とも通じます。
 これに対して秀吉は,北陸を丹羽(にわ)長秀と前田利家に委ね,本願寺顕如(けんにょ)とも通じ,上杉景勝や佐竹義重らとも通じていきます。そして3月下旬,犬山城に入り,小牧山城と対峙することになるのです。いよいよ両雄による持久戦が開始されたのでした。
 家康は,4月8日,自ら全軍を率いて織田信雄と共に出撃し,三好秀次の軍に猛攻を加えます。この戦で,森長可ほかが戦死し,秀次は敗走することになります。この敗報を聞いた秀吉は,ただちに全軍を率いて救援に向かいますが,すでに家康は帰陣していました。これが長久手の戦いです。この戦いの勝利によって,一躍家康の武名が知られることになります。
 さて,尾張に比して,伊勢での戦いは,初めから秀吉に有利に展開しました。しかし,春に始まった戦いは,初冬を迎えても結着はつきません。そこで秀吉は,長島城に居た織田信雄を圧迫して,講和を迫り,結局講和が成立します。その結果,両軍の新城は全て破壊され,信雄側からは人質を出し,秀吉は北伊勢4郡を返還します。また家康の次男義伊(よしただ=結城(ゆうき)秀康)が,秀吉の養子となりました。結局この戦いで,家康の存在が大きくクローズアップされたのでした。