小田原城攻略戦 北条早雲対大森藤頼

 応仁の乱後,守護大名の多くが没落して,代わって守護代や国人(こくじん)衆が台頭して各地の新しい支配者となりました。戦国大名の登場です。戦国大名の多くは,有力な武家の出が多かったのですが,なかには,出自不明の者がいました。北条早雲や斎藤道三が,その代表的な例です。
 北条早雲は,戦国時代の初期,忽然(こつぜん)として歴史の舞台に登場しました。そのときすでに40代の半ばです。それまで何処で何をしていたのか,出身地も氏素性も皆目判らないのです。没したのは永正16年(1519)で,八十八歳であったといいます。逆算すると永享4年(1432年)生まれということになりますが,正確な生年月日は不明です。
 だが,その早雲に始まる小田原北条氏5代が,戦国の100年間,関東の地をほぼ支配して,強力な北条王国というべき勢力を築いていたことは,まぎれもない事実です。早雲は,はじめ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称しました。のちに早雲を庵号とし,入道してからは「早雲庵宗瑞(そうずい)」と自ら記しています。北条早雲というのは俗称です。
 早雲が嫡子氏網(うじつな)を儲けたのは文明18年(1486),54歳です。次男氏時(うじとき)を得たのは58歳で,三男長綱(ながつな)は62歳のときの子です。当時,ふつうであれば人生を終える年ですが,つぎつぎに子を儲けただけでなく,その後も強大な戦国大名への道を突き進んでいったのです。その旺盛な勢力と精力には脱帽せざるを得ません。
 明応4年(1495),64歳のとき,早雲は関東への進出を目指し,小田原城を急襲して大森藤頼(ふじより)を攻め,関東進出の第一歩を印しました。このとき早雲は,大森氏に対してあらかじめ,箱根で鹿狩りをするために大ぜいの勢子(せこ)を入れるという了解を得ました。そのうえで,勢子に姿を変えた数百人の武勇に長けた者たちを送り込み,山中にひそませます。夜半,千頭の牛の角に松明(たいまつ)をつけて,石垣山や箱根の山中に追い上げ,小田原城下に火を放ちます。さらに螺(かい)を吹き鬨(とき)の声を上げました。小田原城では不意の敵襲に驚き,周囲の山々に点々と見える火と城下の火事に大軍が攻めて来たと思い,大混乱となりました。その混乱に乗じて,勢子に化けた精鋭が城下に攻め入り,小田原城の奪取に成功したといいます。
 火牛(かぎゅう)の計は,源平合戦のとき,木曽義仲が倶利伽羅(くりから)峠の戦いで用いたことで有名ですが,もとは『史記』列伝に見える斉(せい)の名将田単(でんたん)が用いた戦略です。ともあれ,永正7年(1510)ごろより早雲は相模の名族三浦氏との戦いを開始しました。早雲は三浦半島の出入り口に玉縄(たまなわ)城を築きますが,秀吉の小田原平定まで一度も落城しなかったので,江戸・河越城と並んで関東三名城の一つといわれました。
 相模国を制圧したとき,早雲は85歳になっていました。早雲は88歳で没しますが,その前年の87歳まで,現役の戦国大名として戦い続けたのです。