小田原征伐(おだわらせいばつ)

 小田原城は,北条早雲に始まる後北条氏(小田原北条氏とも)5代の拠城です。戦国時代,後北条氏はこの城に拠って,約100年の間,関東地方に君臨しました。しかし,後北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ(小田原征伐),その豊臣氏も大坂の陣で滅ぶと,江戸時代は譜代大名・小田原藩大久保氏の居城となって,明治維新まで続きました。
 さて,小田原征伐は,小田原の役とも呼ばれる,戦国最大級の戦いのひとつです。1日の戦いでは関ヶ原合戦が最大ですが,小田原征伐は,秀吉が全国の大名を総動員して,陸と海の四方八方から小田原城を攻撃した,大規模な戦争です。それでは,戦いの模様を見ていくことにしましょう。
 中国地方から九州まで,西日本をほぼ手中に収めた秀吉は,天正16年(1588年)4月,京都の聚楽第(じゅらくだい)に諸国の大名を集め,その権勢を誇りました。しかし,関東の北条氏政・氏直の父子は,秀吉の命令に応ぜず,上洛をしませんでした。関八洲(関東の八カ国)を支配下に収めた後北条氏は,秀吉の実力を甘く見ていたといわざるをえません。このとき秀吉は,すでに関白太上大臣の地位にあって,関東と東北地方を除く,日本の大半を支配下に収めていたのです。
 秀吉が,北条氏直征伐の朱印状を発したのは,天正17年11月24日のことでした。しかし後北条氏は,秀吉軍との決戦の近いことを知って,支城を修復したり,兵員や糧食を貯えたりするのです。関八洲を攻め取った実績を過大評価していたのです。一方で,徳川家康に期待して,家康がうまく和睦に持ち込んでくれるであろうとも考えていたようです。しかし,それらは後北条氏側の勝手読みでした。
 天正18年3月1日,秀吉は自ら京都を出発します。すでに東海道へ家康や織田信雄ら,東山道には上杉景勝や前田利家ら,海上からは九鬼嘉隆や長宗我部元親らの大軍が,関東へと向かっていました。中国の毛利氏や吉川(きっかわ)氏らも,後詰(ごづめ)として家康の支城らに陣取っていました。
 後北条氏側も,箱根の西に山中城を築き,関東の各支城も固め,主だった北条一族の首将を小田原城に集めます。後北条氏にはかつて,籠城戦によって武田信玄や上杉謙信の大軍から小田原城を守った実績があります。しかし,今回の秀吉軍は,あまりにも強大でした。小田原城では,次々に落とされていく支城からの報告を前に,評定を繰り返すのみでした。ぐだぐだと会議を繰り返して結論が出ないときなどにいう「小田原評定」の語は,ここから出ました。
 また,石垣山に砦を築き,ここから秀吉と家康が並んで,小田原城を見下ろし,立ち小便をしたという伝説があります。属にいう「関東のツレしょん」です。結局,7月5日に至って北条氏直は降伏し,北条氏は滅びることになります。いっぽう秀吉は,関東を支配下に収め,さらに会津に至って東北地方も制圧,日本統一を成し遂げるのです。