山城国一揆

 「国一揆」は,15世紀(室町時代)に,近畿地方を中心に起こった国人(国衆)・土豪層による武装蜂起をいいます。国人というのは,国衙(こくが)の住人たちで,国衙は,律令制下の諸国の政庁をいいます。
 文明17年(1485),南山城の久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがら)3郡で起きた大規模な国一揆が,「山城国一揆」です。この年の12月11日,上は60歳から下は15,6歳までの国人が集会し,畠山両軍に対する都からの撤退を要求しました。畠山政長と義就(よしなり)の両軍は,応仁の乱以来,延々と戦い続けていたのです。20年に及ぶ戦いで,都は荒れ果て,それでもなお,いつ果てるとも判らない争いが続いていました。その争いに,ついに都の住民たちが立ち上がったのです。
 彼らは,両畠山軍に対して断固撤退を要求し,退陣しない場合は国衆として攻撃を加えるという強い態度で交渉に臨んだのです。そしてついに,両軍を撤退させることに成功したのでした。
 以後,山城国の支配は,36人衆といわれる国衆が中心となって行われることになります。この組織を「惣国」といいます。「惣国」による自治は,8年間続きました。その間,幕府が,南山城の支配を放棄していたわけではありません。
 幕府は,文明18年(1486)5月と,長享元年(1487)11月に,伊勢貞陸(さだみち)を山城国守護職に補任(ぶにん)しています。しかし,いずれも貞陸は南山城に入部することができませんでした。「惣国」による自治体制が強かったからです。さらに明応2年(1493)にも,幕府は,河内国出陣の準備の中で,再び伊勢貞陸を山城国守護に補任します。しかしやはりこのときも,貞陸は,南山城に入部することができませんでした。
 そこで幕府は,同年(明応2年=1493)8月,山城8郡の諸侍中に宛てて,守護である伊勢貞陸の下知に応ずることを命じます。これを受けて山城の国人衆は,申し合わせた結果,同月(明応2年8月)18日に,伊勢貞陸の支配を認めることにしたのです。しかしその後も,貞陸の入部に反対する声は強く,結局貞陸は,山城国に入部することができませんでした。
 伊勢貞陸は,山城国に入れないことがわかると,大和の豪族古市澄胤(ふるいちすみたね)に,綴喜・相楽2郡の支配をまかせます。当初から南山城を狙っていた古市は,さっそく軍勢を率いて山城へと攻め入ります。山城の武士たちは稲屋妻(いなやつま)城に立て籠り,抵抗を試みますが,すでに内部分裂を起こしており,結局落城してしまいます。古市澄胤は,戦後すぐに大和へ引き上げますが,こののち南山城の2郡は,古市の代官井上氏によって支配されることになります。
 ともあれ山城国一揆が,小勢力による一時的な連合とはいえ,8年間,南山城に自治政権をつくることができたのは,農民や地侍たちの強いバックアップがあったからに他なりません。彼らは戦争に反対し,自分たちの生活を自分たちの手で守ろうとしたのです。