山田長政シャムで毒殺される

 山田長政は,江戸時代の前期,シャム(今のタイ)に渡って活躍した日本人です。そのころ,シャムの都(みやこ)アユタヤ(アユチヤ)には日本人町があって,多くの日本人が在住していました。海外雄飛を試みた日本人が少なからずいたのです。
 長政の出身地は駿河国(するがのくに=静岡県)です。若いころは仁左衛門(にざえもん)といい,一時は沼津城主である大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の駕籠舁(かごかき)をしていたといいます。
 しかし駕籠舁は一時のアルバイト,あるいは沼津城主とのコネを得るためだったかも知れません。このころから長政は,海外雄飛を夢見ていたと思われます。誰から,どのようにして海外の知識を身につけたのか判りませんが,当時,海外へ出て一旗挙げようという若者が,少なからずいたものと思われます。
 彼は慶長16年(1611)ごろ,朱印船に乗ってシャムに渡り,アユタヤの日本人町を訪れます。その当時日本人町には,千人以上の日本人が住んでいました。その中で長政は,次第に頭角を現していきます。そのころ,日本人町の長(おさ)として町を束(たば)ねていたのは,城井久右衛門という人物です。久右衛門は,シャムの政府にも重んじられていました。
 長政は,その久右衛門に認められて,港務長から日本人町の長へと,転身していきます。シャムの国使が日本に来朝することになったとき,長政は部下を派遣して,国交親善につとめました。
 長政は,シャムの国王ソンタムの信任を得て,オヤ・セナピモクという,シャム国最高の官位を得ることになります。
 また長政は,日本やマラッカ(マレー半島の南西部に位置した港湾都市)などとの貿易にも従事していました。
 1628年(寛永5年),ソンタム王が死去しました。すると王位継承をめぐって,争いが起こります。王の弟の派閥と,王子の派閥が争うのです。長政は王子派として,この争いに勝利しました。そして,王子を新たなるシャムの国王に擁立するのです。もちろん,新国王の最も有力なバックボーンが,山田長政です。
 しかし長政は王子派の一族ではありませんから,自らが国王となることはできません。あくまでも王子派を支える有力な外人部隊の司令長官にすぎないということになります。
 とはいえ,その長政が強大な力を持って,王子派の動向を左右していたのです。王子派の中に,そうした長政に対して,不平や不満を持った者がいたとしても,おかしくありません。王子派の実力者で王族の一であったオヤ・カラホムもその一人です。彼は,王位も伺っていました。
 そこで,長政を南方のリゴール(六毘)の総督に任命して,中央から遠ざけてしまいます。リゴールは,隣国のパタニ王国と紛争中でした。長政は,パタニからの侵入軍との戦闘中,足を負傷します。このとき治療したのが,オヤ・カラホムの密命を受けたシャム人で,彼は長政の傷口に毒薬を塗るのです。このため長政は1630年(寛永7年),死去しました。40歳前後でしたでしょうか。