幕府,キリシタン多数を処刑

 キリスト教が日本に伝えられたのは,戦国時代真盛りの天文18年(1549)のことです。イスパニア(スぺイン)の宣教師フランシスコ・ザビエルによるものでした。
 戦国の三大英雄・信長・秀吉・家康によるキリシタン(キリスト教及びキリスト教徒)政策には,それぞれに特徴があります。
 信長はキリシタンを保護しますが,それは,信仰心の故ではありません。本願寺教団と長期にわたって戦っていたので,敵対する仏教勢力との対抗上,キリスト教を保護したのです。いっぽう,信長の後継者である秀吉は,サン・フェリッペ号事件を契機にキリスト教を大弾圧しました。
 サン・フェリッペ号事件とは,慶長元年(1596)に,遭難して神戸に入港した同船を,秀吉が没収した事件のことです。秀吉は増田(ました)長盛に命じて,同船の積荷及び所持金のいっさいを没収しました。さらに,その時の水先案内人のちょっとした失言から,キリスト教は日本国土征服の手段であるとして,秀吉のキリスト教への弾圧が始まったとされています。秀吉はこのとき長崎で信徒を処刑しましたが,現在もその跡地に記念碑がのこされています。二十六聖人の殉教碑です。
 家康は,幕府の基礎を固め海外諸国との和平交渉を進めるために,当初はその信仰を容認し,宣教師を利用したりもしました。そのため,フランシスコ会をはじめ,布教活動が活発となり,教線は関東から東北地方へと伸びていきました。いっぽう慶長5年,オランダ船のリーフデ号が漂着したことによって,プロテスタントの国であるオランダ,イギリスとの交渉が始まりました。家康の寵愛を受けたイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針=みうらあんじん)はよく知られています。
 彼によるスペイン,ポルトガルへの中傷,特に,宣教師がカトリックの国々の国土侵略政策の一役を荷ない,信徒を煽動して反乱を起こさせることを謀んでいる,という示唆は,幕府に大きな危惧を与えました。
 幕府は,禁教令を出してキリスト教を禁ずるのですが,宣教師や信徒に対する圧迫・迫害は,江戸,京都をはじめ全国に及びました。
 各地の教会が破壊され,宣教師たちは長崎に集められて,マカオやマニラに追放されてしまいます。いわゆる「大追放」です。このとき,高山右近や内藤如安(じょあん)も,マニラに追放されました。遠藤周作の名作『沈黙』の背景をなす時代です。しかし,大追放にもかかわらず,国内に潜伏する宣教師は跡を断ちませんでした。
 幕府は,「五人組」の制度を設けて互いに監視させ,懸賞金制度をつくり,宣教師や信徒を密告させました。元和8年(1622)には,長崎で,イエズス会のカルロ・スピノラ以下55人の宣教師と信徒を処刑しています。
 三代将軍家光のころになると,禁教方針はさらに厳しくなり,やがて「島原の乱」が起こることになります。結局,幕府によるキリシタン断圧は,幕末まで続くことになります。さらに明治新政府も,これを受け継いでいきますが,諸外国から非難を受け,明治6年(1873)になって,やっと信教の自由が認められたのでした。