幕府,外様大名に参勤交代を命ず

 関ヶ原の戦い(慶長5年=1600年)によって徳川家康が勝利し天下の覇権を握ると,外様大名などのうち,江戸に参勤する者が現われます。さらに,家康が征夷大将軍になると(慶長8年),その傾向に拍車がかかります。幕府(徳川家)に忠誠を誓うためにほかなりません。
 家康は,外様大名の江戸参勤を奨励し,参勤の大名には屋敷地(大名屋敷)のほか,刀剣や書画,鷹や馬,糧米(りょうまい)などを下賜し,大大名の場合は,東海道は高輪(たかなわ)御殿,中山道は白山御殿,奥州街道は小菅御殿まで出迎えるなど気を使っています。しかし慶長16年,家康は豊臣秀頼を京都二条城に謁見して,豊臣氏以下全国の大小名との主従関係を確定させます。
 大坂夏の陣(元和元年=1615年)後,徳川幕府は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」によって,諸大名の徳川氏への参勤規定を掲げ,事実上,隔年の江戸参勤をさせます。そのことを踏まえて,寛永12年(1635)の「武家諸法度」において,「大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤」と,各大名は毎年4月交代で江戸に参勤することを規定したのです。さらに寛永19年,譜代大名にも参勤を命じ,全国すべての大名が,江戸と自領の間を往ったり来たりすることになったのです。旗本30余家にも,隔年の参勤が義務づけられました。
 もっとも例外もありました。北九州と朝鮮半島の中間に位置する島国対馬(つしま)の宗氏は三年に一度,蝦夷地(えぞち=北海道)の松前氏は五年に一度の参勤でした。また,水戸徳川家や,幕閣として重要な役割を担う大名は定府(じょうふ=一年中江戸に滞在)でした。
 参勤のときの行列が,「大名行列」です。「下に,下に」といいながら整然と行列を作って歩きました。もともとは軍時の行列すなわち行軍が始まりですので,当初は槍隊や鉄砲隊などを中心として質実剛健なものでした。しかし,時がたつに従い,家格を誇る華美なものへと変化していきます。もっとも何百人もの藩士ほかが移動するわけですから(加賀前田家などは二千五百人を超える大行列であったといわれます),経費も大変です。弱小の大名家の場合,宿場町を通るときと江戸に入ってから以外は,ほとんど駆け足であったといいます。
 なお,行列したのは大名とその家臣のみです。大名の妻子は江戸常住が義務づけられ,領地に帰ることはできませんでした。つまり,大名の家族は,人質として江戸に留め置かれていたということです。ともあれ多くの大名は,江戸と領国との二重生活によって,繁忙と経済的窮乏に苦しむことになります。もっともそれが,幕府徳川家の狙いでした。しかし一方で,街道の整備,宿場町の発展,物資だけでなく文化の移動などによる庶民文化の発展をもたらしました。この制度が実質的になくなったのは,幕末の文久二年(1862)のこと。幕府が弱体化したからにほかなりません。