幕府,宇喜多秀家を八丈島に流刑

 宇喜多秀家は,元亀3年(1572),宇喜多直家の嗣子(しし)として,備前国岡山に生まれました。戦国時代の真最中で,この年,織田信長が浅井長政の近江に攻め入り,上杉謙信は越中の一向一揆と戦い,武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っています。
 天正7年(1579),直家は毛利氏から離反して羽柴秀吉に帰順します。以後,秀吉の中国地方経営に従って,備前・美作(みまさか)の各地で毛利氏と戦いますが,同9年,岡山城で病没しました。その直家の嗣子が秀家ですが,秀家の「秀」は,秀吉から与えられたものです。
 直家が没したとき,秀家はまだ10歳の少年でしたが,秀吉の斡旋によって,信長から父の遺領相続を許されました。その後,秀家は,秀吉に寵遇(ちょうぐう)され,秀吉の養女(前田利家の娘)を妻に迎えて,豊臣家・前田家と縁戚関係になり,秀吉の四国征伐,九州征伐,また小田原征伐にも従軍して活躍しました。
 このころから秀吉は,非情なる独裁者へと変貌します。天下人になったのはいいのですが,その考えはまさに誇大妄想です。日本を統一したのでは気がすまず,大陸に攻め入って明(みん)国を攻め取ろうというのです。そのためには,まず朝鮮半島に攻め入らなければなりません。
 文禄元年(天正20年=1592),秀家は渡海して,小早川隆景や黒田長政らと共に明軍と戦い,碧蹄館(へきていかん)の戦いで大勝利を収めました。また,慶長2年(1597)の再度の朝鮮出兵にも従い,遠征軍を監督しています。この間,天正18年から岡山城の大改築を行ない,慶長2年には天守閣を竣工,城下町を形成すると共に,商工業の育成や新田開発にもつとめています。備中早島から倉敷にかけて潮止め堤防を築き,児島湾干拓事業の先蹤(せんしょう)ともなっています。今でも「宇喜多堤」の名が残されています。
 また,慶長3年には,秀吉から五大老の一員に任じられ,秀吉没後も徳川家康らと共に,政務の中枢に位置して,豊臣政権を支えました。
 しかし慶長5年(1600),関ヶ原の戦いが起こります。まさに天下分け目の大合戦で,日本史上有数の戦いです。徳川家康を総大将とした東軍と,石田三成と毛利輝元による西軍が,美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡)で激突します。関ヶ原は,古代から不破(ふわ)の関が置かれた,東西交通の要衝です。
 9月15日,小雨もよいの中で行なわれた大合戦ですが,東軍が圧勝しました。西軍に属していた小早川秀秋らが寝返り,また毛利氏が参戦しなかったために,本来互格であったはずの戦力が,東軍に圧倒的な有利をもたらしたからです。秀家は1万6千の兵を率いて関ヶ原に臨んだものの,敗れて伊吹山中に隠れ,その後薩摩に落ちのびて島津氏を頼ります。しかし同8年に捕えられ,同11年に八丈島に流罪となりました。嫡子の孫九郎ら13人での渡島でした。その後,50年間八丈島で暮らし,明暦元年(1655)11月20日,病没しました。84歳でした。今も八丈島に墓碑が残されています。