幕府,生類憐みの令を出す

 「生類憐みの令」は,徳川5代将軍綱吉の時代,生きとし生けるものの命を大切にして愛護するという,幕府の政策を指していいます。「生類憐みの令」という法令が出されたわけではありません。
 この政策は,世界でも早い時期の,国家による動物愛護の政策として,イギリスの動物愛護団体などから高い評価を得ています。しかし,江戸っ子たちにとっては,きわめて迷惑な政策でした。野犬に噛まれそうになった我が子をかばい,犬を蹴飛ばしたところ,けしからんということで牢につながれた例もありました。犬といわずに「お犬様」といわなければなりませんでした。
 江戸市中に多かったものを称して「お伊勢,稲荷(いなり)に犬の糞」といいます。伊勢参りが盛んでどこの家にも伊勢神宮のお札があり,お稲荷さん(稲荷神社)も大流行で江戸の各所にありました。そして「犬の糞」です。野犬がやたらに多かったのです。
 どのぐらい多かったかというと,元禄8年(1695年)江戸中野に作られた犬小屋で養われていた野犬だけでも,何と10万頭を超えたといいます。その費用は,すべて江戸市民の負担でした。
 徳川綱吉は,なぜこれほどの動物愛護政策をとったのでしょうか。
 これは,綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)と,桂昌院の寵僧である江戸護持院の僧隆光(りゅうこう)によるところが大きいのです。2人は,綱吉が戌年(いぬどし)生まれであるところから,犬を大切にすることによって治世がよくなり,名君と褒(ほ)め称えられるであろうと,綱吉に諭したのだといいます。真偽のほどはともあれ,犬愛護令よりも早く,諸国に,厳しい処罰条項と共に公示されたのが,「捨馬禁令」でした。
 馬は農民にとっても重要な動物でした。農耕馬の果たす役割は,極めて大きなものだったのです。ですが離れ馬,捨て馬となると話は別です。そうした馬は田畑を荒らし,農村に大きな被害をもたらしました。尻尾を切り取った馬の像が神社に飾られたりしているのは,馬の害に合わないよう祈願したものです。
 また,野犬の横行が目立った江戸では,捕まえて食べる者もいました。「羊頭狗肉(ようとうくにく)」という格言があるように,狗肉すなわち狗(いぬ)の肉は中国でも食べられていました。今でも中国の一部では,食用の犬が飼育されています。
 なお,生類憐みの令の「生類」は,次々にエスカレートしていきました。獣肉を食べないことはもちろんのこと,日常の食料である魚介類にまで及んだのです。食べないことはもちろんのこと,鳥や魚など籠や鉢に入れて飼うことも禁じられたのでした。オミクジを引く小鳥や,芸をする猿などもご法度(はっと)です。
 しかし,宝永6年(1709年)正月,徳川綱吉が没しますと,生類憐みの令も実質的に廃棄されることになりました。ただし,捨子(すてご)と捨牛馬を禁ずる法は,以後も幕法として出され続けました。牛馬はともあれ。子を捨てるという,あってはならないことが,少なからずあったのです。中絶や堕胎がままならなかった江戸時代ですので,産んでから捨てるということになります。いずれにせよ,本来許されるべきことではありません。