平戸にオランダ商館ができる

 オランダ商館は,江戸時代,平戸(現長崎県平戸市)および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店です。オランダと徳川幕府との交流は慶長5年(1600年)にオランダ船「リーフデ号」が豊後(大分県)に流着したことに始まります。そして慶長9年(1604年),オランダとの国交が開始されたとき,商館が置かれたのが平戸でした。
 オランダは,ヨーロッパ諸国のなかで最も早くから日本と交渉を持った国のひとつです。また鎖国中も,欧米では唯一の交易国でした。ヨーロッパの文物は,もっぱらオランダを通じて輸入され,諸科学などもオランダ語で紹介されました。それらの学問は「蘭学(らんがく)」と称され,蘭学を学ぶ日本人も少なくありませんでした。
 なおオランダの呼称は,ポルトガル語の「Olanda」に由来しています。日本では,阿蘭陀,和蘭陀などと表記されました。
 さて,家康は海外との交易を官許制とします。すなわち,貿易に従事しようと望む者は,必ず家康に願いを出て,その承認を得なければなりませんでした。その承認のしるしとして,朱の印を押した「異国渡海朱印状」がさずけられました。これを携行した商船は,公海,領海を問わず侵犯されることはなく,交戦国の港湾の出入りや封鎖線の通過も許されたといいますので,その法的効力はとても大きなものだったのです。
 さて,その朱印船貿易に従事した貿易家は105家,派遣された船は356隻であったといわれます。大名では島津家久,松浦鎮信(まつらしげのぶ),有馬晴信,鍋島直茂(なべしまなおしげ),加藤清正,細川忠興(ただおき)など8家,それに角倉了以(すみのくらりょうい),茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう),亀屋栄任(えいにん),末吉孫左衛門(すえよしまござえもん),尼崎屋又次郎(あまがさきやまたえもん),木屋弥三右衛門(きややそうえもん),末次平蔵(すえつぐへいぞう),荒木宗太郎,高木作右衛門(さくえもん),長谷川藤広(ふじひろ),長谷川藤正(ふじまさ)などが,当時活躍した豪商たちです。
 朱印船の渡航先は,台湾,澳門(マカオ)から,東はモルッカ諸島,南西はマレー半島に及ぶ地域です。はるか太平洋上のこれらの国々へ,よくも小さな帆船で往き来したものだと,感心します。おそらく難破したり漂流を余儀なくされた船も,少なからずあったことと思います。ともあれ,インドシナ半島の交趾(コウチ=ベトナム),柬埔寨(カンボジア),暹羅(シャム=タイ),呂宋(ルソン=フィリピン)などで活躍する者が多く,これら各地には日本人町がつくられました。
 シャムでは,日本人傭兵の隊長から六毘(リゴール)王にまでなった山田長政,台湾では,商権をめぐってオランダ人と争った浜田弥兵衛(やひょうえ)の話などが,知られています。
 ところでオランダ商館は,寛永18年(1641年)に平戸から長崎の出島に移転させられました。なお日本は,寛永16年から鎖国体制となりますが,ヨーロッパでは唯一オランダだけが,長崎の出島にあって日本と交流をつづけました。また,長崎市の「出島オランダ商館跡」の史跡や出島資料館で,往時をしのぶことができます。