後醍醐天皇と建武の新政

 元弘3年(1333)5月7日,六波羅が滅亡し,その報せが後醍醐天皇のもとに届きます。後醍醐天皇は,伯耆(ほうき。鳥取県)の船上山(せんじょうさん)の行宮(あんぐう)に居ました。報せたのは足利尊氏と千種忠顕(ちぐさただあき)です。天皇は摂津(兵庫県)で楠木正成(まさしげ)の出迎えをうけ,西宮(にしのみや)で北条氏全滅の報に接し,6月4日,意気揚々と京都の東寺に入りました。それまで光厳天皇に仕えていた公家たちは,先を争って東寺に伺候しました。各地の武士たちもぞくぞくと京都に向います。新政権のもとでの地位を確保するために他なりません。
 大塔宮護良(もりよし)親王も,征夷大将軍に任ぜられて,馳せ参じた多くの兵を引き連れ,華やかに入京しました。いよいよ後醍醐天皇の親政が始まることになります。「親政」というのは,天皇が自ら政治を行うことです。後醍醐天皇による親政を「建武の新政」あるいは「建武の中興」といいます。この場合は「新政」すなわち新しい政治です。
 六波羅を滅亡させた功労者の足利尊氏と,鎌倉を滅ぼした新田義貞という武家の代表が,共に後醍醐天皇に従うという態度をとったことにより,天皇家と公家たちは大いに喜びます。源頼朝以来の武家政治から,貴族政治となり,本来の「公家一統の天下」に立ち戻った,というのです。
 しかし,建武の新政は,なかなかうまくいきません。150年もの間,武家による鎌倉幕府が政権を担っていて,公家たちにはもはや国政を司る力がなかったといえます。それでも天皇は強気でした。有力な社寺の領地を保障したのはいいとして,広大な北条氏の遺領の処分が問題でした。その配分は『太平記』によれば,大半を宮廷費と護良親王および後醍醐天皇の寵妃である阿野廉子(あのれんし)に与えたのです。
 後醍醐天皇による到幕を多くの武士たちが支持したのは,天皇と公家たちによる貴族政治を期待したからではありません。武士たちは,北条氏への反発と,恩賞や土地をあずかりたいがためであり,公家たちも官位の昇進や所領の増加を期待したからです。後醍醐天皇の処分は,こうした人々の気持を,まったく考慮しないものでした。多くの武家や公家たちの間に不満が広まっていったのは,当然のことといえます。
 そうしたなかで,足利尊氏が地方の武士たちの信頼を集めて,大きな力を持ちます。これに真向から対立したのが護良親王です。親王は尊氏を追討しようとしますが,後醍醐天皇が追討中止の命令を下し,実行できません。しかし護良親王はあきらめず,父後醍醐に迫って征夷大将軍となり,尊氏追討の兵を集めます。今度は尊氏が天皇に迫り,天皇は仕方なく親王を捕え,尊氏の弟の直義(ただよし)に引き渡し,鎌倉に流してしまいます。さて,その結果どうなったかは,次回で…。