後醍醐天皇と正中の変

 平安時代から現在に至るまでの1200年間,親政(天皇自らが政治を行なうこと)は,わずか1年です。その1200分の1の政権を担ったのが,後醍醐天皇です。厳密にいうと,建武元年(1334)とその前後足掛け3年ということになりますが,ともあれ天皇が国政のトップに立った例は,他にありません。
 天皇とは何か,というのは,かなりむずかしい問題です。平安時代以降,後醍醐天皇という例外を除いて,天皇は政治力も経済力も持たないのですが,歴代の為政者は常に天皇を頂点に戴いています。逆にいえば,天皇を担ぐことに成功した者が,天下を掌握しています。後醍醐天皇は,担がれることをよしとせず,自ら神輿を降りて,担ぎ手である鎌倉幕府北条氏に立ち向かい,ついに倒幕に成功します。もっとも,後醍醐天皇は自らの力で幕府を倒したと思っていたようですが,幕府を倒したのは足利尊氏ら新たなる武家勢力です。彼らを軽んじた後醍醐天皇の親政は脆くも崩れて,南北朝時代という争乱期を迎えることになるわけですが,そこに至るまでの天皇の動きを追ってみることにしましょう。
 後醍醐天皇が最初に倒幕を企てたのは,正中元年(1324)のことです。6年前の文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇は,元亨元年(1321)に親政を実現しますが,実権は幕府の執権である北条高時が握っていました。それでも天皇は,吉田定房や北畠親房といった公卿を側近に登用して政治改革を目指すいっぽう,幕府転覆の計画を練ります。たびたび無礼講と称する宴会を開き,美妓をはべらせて酒を酌みつつ,謀議を重ねたといいます。
 そして,側近の日野資朝(ひのすけとも)を関東に,日野俊基(としもと)を南畿に派遣して世の情況を探らせた天皇は,幕府の弱体化と御家人たちの不満を知り,好機到来と考えます。正中元年9月23日を決起の日と定めた後醍醐天皇は,京都六波羅の北条氏の拠点を襲おうとします。ところが,この計画は北条氏に漏れてしまいます。逆に9月19日,天皇方の宿所が六波羅の兵に急襲されてしまいました。後醍醐天皇はすぐに使者を鎌倉に送り,自分は一切関与していない旨を陳弁します。いっぽう日野資朝は,累を天皇に及ぼさないために,すべての責任を負って佐渡へ流罪となります。俊基は,許されて京都に帰りました。
 こうして第1回目の倒幕計画は失敗します。しかしこのあとも,後醍醐天皇は倒幕の意志を変えません。第1皇子の護良(もりよし)親皇を天台座主(ざす)として,鎌倉幕府調伏(ちょうぶく)の祈?を盛んに行なわせたり,自らも南都北嶺(奈良の諸寺と比叡山)に行幸し,僧兵を味方に引き入れようとしたりします。天皇の鎌倉幕府憎しの執念には,すさまじいものがあります。さて,そのあと後醍醐天皇はどうしたのか。幕府の命運は。次回をお楽しみに…。