徳川御三家が成立する

 家康は徳川家の始祖ですが,家康の直系によって徳川300年が続いたわけではありません。家康のあと2代将軍秀忠,3代家光,4代家綱と続きますが,家綱が実子のないままに亡くなり,家康の直系はここで跡絶えます。とはいえ,家康には多くの子があり,それぞれに一家をなしていました。
 家康の長男信康は,織田信長とのからみで自死させられてしまいますが,二男の秀康は越前松平家の祖となり,九男の義直は尾張徳川家,十男頼宣は紀伊徳川家,十一男頼房は水戸徳川家の祖となりました。この尾張・紀伊・水戸の徳川家が「御三家」です。
 家綱の没後,5代将軍職を嗣いだのは,綱吉です。綱吉は3代将軍家光の庶子です。なお,正妻が生んだ長男が嫡子で,相続権のトップとなります。相続権は男子にしかなく,正妻に男子がない場合には,側室の男子が生年順に相続権を有しました。とはいえ,側室は何人もおり,男子が何人もいる場合もあって,必ずしも,いつもすんなりと相続がまとまったわけではありません。そこでお家騒動が起こることになるわけです。各大名家も一緒です。お家騒動は,小説や芝居,映画などの絶好のテーマとなって今日に至っています。
 さて,徳川家の御三家成立に至る相続について,見ていくことにしましょう。
 家康のあと,徳川将軍家の嫡流は,家康の三男秀忠が継ぎます。先に記したように,長男は自死させられ,二男は越前松平家を継いでいたからです。秀忠のあと,3代家光,4代家綱と続きますが,家綱には実子が生まれませんでした。延宝8年(1680),家綱が死去したことにより,家康の直系は跡絶えたのです。
 家綱の跡を継いだのは,家光の庶子で家綱の2番目の弟である綱吉です。しかしこの綱吉にも男子が生まれませんでした。そこで綱吉の兄である綱重の子家宣が,徳川第6代将軍となったのです。次いでその子で,まだ幼少の家継が7代将軍となりましたが,家継は享保元年(1716),幼少のまま亡くなってしまいました。ここに秀忠の血統も絶えるのです。それどころか,徳川家の血統も危ういこととなってしまいました。
 そこで,紀伊徳川家から吉宗が迎えられて,8代将軍に就任することになります。吉宗は,紀州藩の藩政改革を成しとげ,極めて優秀な人物であると共に,血統的にも家康に近かったのです。その吉宗によって享保の改革が成されることになります。吉宗の登場がなければ,徳川幕府は,もう少し早く終わっていたかもしれません。
 さて,吉宗は成長した2人の庶子宗武(むねたけ)と宗尹(むねただ)を,大名として独立させず,それぞれ田安邸と一橋邸に住まわせました。また,九代将軍家重も,庶子の重好を清水邸に住まわせます。これが「御三卿」です。「御三家」「御三卿」は,徳川宗家に世嗣ぎが生まれなかった場合に,将軍を出すための大切な家柄でした。幕末,13代家定に至って実子が絶えたとき,大老井伊直弼のもと,水戸の推す一橋慶喜と紀伊慶福が激しく対立したことは,よく知られています。結局,水戸斉昭の推す慶喜が十五代将軍職を嗣ぎましたが,幕府が倒れ,慶喜が最後の将軍となったのです。