徳川秀忠,二代将軍となる

 秀忠は,徳川家康の3男です。それがなぜ,徳川家を継いで2代将軍になったのでしょうか。
 家康の長男は,岡崎三郎の通称で知られた信康です。織田信長の女(むすめ)徳姫を妻とし,元亀元年(1570)11歳で岡崎城主となりました。しかし徳姫の讒言(ざんげん)によって,天正7年(1579),信長の命を受けて自殺させられてしまいます。次男は,秀吉の養子となり,さらに結城(ゆうき)家を継いだ結城秀康です。そこで,3男の秀忠が徳川家を継ぐことになったのです。
 とはいえ,すんなりと将軍位を継げたわけではありません。慶長5年(1600),秀忠は父家康に従って,会津の上杉景勝を攻撃するために,東北へと進軍します。しかしこれは,石田三成に挙兵させるための罠でした。果たして三成挙兵の報が,下野(しもつけ)小山(おやま)まで進んだ徳川軍に届きます。徳川軍はすぐさま,西へと軍を返します。
 このとき,家康は東海道を,秀忠は東山道を通って,決戦地である関ヶ原へと向かいました。ところが秀忠軍は,信州に至ったところで,真田昌幸率いる真田一族の軍勢に,行手を阻まれます。そこで,秀忠軍は,昌幸の籠る信州上田城を攻めるのですが,そのために時間を空費してしまい,関ヶ原に到着したときには,すでに戦いが終わっていたのでした。このため家康の勘気をこうむることになりますが,諸将の取り成しによって,やっと赦されます。
 3年後の慶長8年,家康が征夷大将軍に任じられ,秀忠は右近衛大将となりました。この年,秀忠の長女千姫が6歳で,16歳の豊臣秀頼のもとに入輿(じゅよ)しています。政略結婚にほかなりません。
 そうして慶長10年2月下旬,家康と秀忠は,10万余の大軍を率いて上洛し,4月上旬,家康は将軍職を秀忠に譲ることを奏聞し,4月16日,秀忠が徳川家の第2代征夷大将軍に任じられたのでした。秀忠はすでに31歳になっていました。秀忠は,源氏長者・正二位内大臣に任じられ,翌年の9月,新営がなった江戸城に入城します。次いで慶長12年には朝鮮通信使が来日して拝謁を受け,同14年には,島津氏の琉球侵攻を許可しています。しかしこの時代は,実際には大御所家康が仕切っていて,秀忠は主に東国の大名統率に当たっていたに過ぎません。
 慶長19年,秀忠は従一位右大臣となり,この年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で,家康と共に出陣し,ついに豊臣氏を滅亡させます。さらに翌年(慶長20年=元和元年)家康が没し,秀忠が名実共に徳川幕府のトップに位置したのです。その後の秀忠は,苛烈な将軍として辣腕(らつわん)を振るい,のべ41家の大名を取りつぶし,また自分の女(むすめ)和子(まさこ)を後水尾天皇に入内(じゅだい)させ,紫衣(しえ)事件によって天皇を退位に追い込んで,幼女の孫娘を天皇につけます。明正天皇です。元和9年(1623),家光に将軍職を譲りますが,なお江戸城西の丸にあって,大御所として実権を振るいました。亡くなったのは,寛永9年(1632)正月24日,54歳でした。