応仁の乱へ

 足利義政がわが世の春を謳歌していたころ,いっぽうで不思議な現象や天変地異がつづきます。
 まずは長禄3年(1459)のことです。この年は,正月に義政の愛妾のお今が殺され,いわば不吉に明けた年です。この年の6月19日と7月20日の2回,空に2つの太陽が現れたといいます。これを見た多くの人々は,驚き,おそれおののきました。翌月の8月18日,ちょうどお昼ごろ,今度は太陽が急に銅色(あかがねいろ)に変わったので,またまた人々はおそれました。
 はたして9月になると,それまでの日照りつづきが一転して長雨となり,賀茂川が氾濫して都は大変な被害にあいます。翌年の寛正元年(1460)の6月7月はまたも長雨続きで,8月には洪水となりました。ところが翌2年は,春から夏にかけて雨がまったく降りませんでした。こうした3年越しの天候異変は,人びとにも悪影響をもたらします。
 寛正の飢饉と呼ばれる大凶作によって作物はまったく実らず,多くの人が飢えて町をさまよい,行き倒れて亡くなる者も多くいました。そのうえ,洪水のあとには疫病が流行し,多数の人が死にます。その死体を賀茂川に捨てたため,死体によって川の水がせき止められ,積み重なった死体の悪臭が町々に満ちて,住民たちは大へん悩まされました。そうしたところへ,徳政を要求する農民らが京の町に乱入してきて,京都市中は,まさに地獄さながらというありさまとなりました。
 そうした状況を幕府や武家が知らなかったはずはありません。しかし将軍も有力武家も知らん顔で,税だけは厳しく取り立てました。天変地異によって凶作となった農民の多くが,土地を捨て,乞食になりました。都の周囲は荒れ果てた田畑ばかりです。将軍足利義政がやったことといえば徳政令を出したぐらいのものです。一代中じつに13回も徳政令を出しました。歴代将軍のワースト記録です。
義政には子供がいませんでした。早く引退して趣味の世界に生きたい義政は,将軍職を継がせることを条件に,弟の義視(よしみ)を養子にしました。一年後の寛正6年(1465)11月20日,義視は元服の式を挙げました。すでに27歳になっていましたが,将軍就任を前程とした元服式です。
 ところが,その三日後,富子夫人に男の子(義尚)が生まれたのでした。「万民歓呼,天下万民の基なり」とある僧侶の日記に記されました。義政が将軍職をゆずることを前提に義視を元服させたことは明らかです。しかし富子にしてみれば我慢のならないことです。正夫人が生んだ男子に継承権がなく,夫の弟でしかも妾腹の義視が継ぐというのです。富子は,山名宗全を義尚の後見人にして,細川勝元を後見人とする義視に対抗します。
こうして,山名宗全・細川勝元という宿敵どうしが,またまたしのぎを削ることになりました。いよいよ応仁の大乱へと時局は動いて行きます……。