応仁・文明の乱

  応仁・文明の乱は,応仁元年(1467)に,京都で起こりました。はじめは畠山家の内紛です。畠山政長は細川勝元の援助を受け,畠山義就(よしなり)は山名宗全を後ろ楯にします。大乱の火ぶたが切って落とされたのは,応仁元年5月26日のことで,両軍合わせて25万人もの兵が京都でぶつかり合ったのです。
 この大乱が終わりを告げたのは,文明9年(1477)のことです。その10年間で京都はすっかり焼けつくされ,日本各地にも波及して各地もすっかり荒れてしまいました。その間のことは,『「室町時代から戦国時代へ」⑦応仁の乱へ』に,すでに記しましたので,憶えているでしょうか。
 乱が収束した文明9年,興福寺大乗院門跡(もんぜき)の尋尊(じんそん)は,大乱によって一変した諸国の状況を,つぎのように区分けして記録しました。
 第1は,幕府の命令にことごとく従わず,年貢をいっこうに進上しない国々。
 第2は,国中でなお戦乱が続いていて,年貢進上どころではない国々。
 第3は,守護は一応下知(げち)に応ずるものの,守護代以下各国の者共が従おうとしない国々。
 大別すると諸国はこの三つのいずれかに属する,というのです。しかし尋尊は,結局は,「日本国は悉(ことごと)く以(も)って御下知に応ぜず,とも記しています。
 実際に応仁・文明の乱後,文明17年の山城国一揆(やましろのくにいっき。次回に詳述)につづいて,長享2年(1488)には,加賀の一向一揆が守護の富樫政親(とがしまさちか)を倒し,門徒たちが国を治める「門徒持ち」の国をつくるありさまでした。権力は,将軍から守護へ,守護から守護代そして国人へ,さらに地侍や民衆へと,しだいに下降分散していき,下剋上の社会状況は深まっていったのでした。
 ともあれ,応仁・文明の乱が収まったことで,諸国の武士たちもぞくぞくと引き上げていき,11年目にしてやっと,京都の町にも平和がもどってきました。京都の住人である公家たちも,ほっと胸をなでおろしたのでした。とはいえ,京都は大半が焼け野原となっていました。平和がもどれば,町人や職人たちももどってきて,京都の町は,急速に復興していきます。しかし,幕府の屋台骨は,すっかりゆるんでしまいました。
 この戦争は,中央での家督争いに端を発したものですが,中味は,地方武士の地盤固めとなり,また諸国の勢力の争いに変わっていったのです。そして,諸国の武士たちにとっては,幕府も守護も,あてにならない存在となったのでした。幕府もそのことはわかっていたのですが,もはや権力をたてなおす実力も気力も失われていました。
 それでも幕府は,なんとかして勢力をもとにもどそうと,はかない努力をつづけます。それが将軍義尚(よしひさ)の六角(ろっかく)征伐です。義尚は近江国の鉤(まがり。現在の滋賀県栗東市)に陣をしきますが,六角高頼を甲賀郡の山中に追ったものの,延徳元年(1489)に陣中で没してしまいました。さて,幕府はどうなるのでしょうか…。