戦国大名と金銀山

 戦国大名にとって大切なのは,何といっても軍事力です。強大な軍事力を有した者が,他を制することになります。では,どのようにして軍事力を保持することができるのでしょうか。それには,経済力を有することです。
 武器・武具を購うにしても,兵を顧うにしても,必要なのは経済力,イコール金銀です。戦国大名たちは,戦いのいっぽうで,必死に金銀を得るための経済活動をしていました。特産品の交易や銅や鉄の鉱山開発ですが,もっとも手っ取り早いのが,金銀山の開発でした。
 上杉謙信が力を持ったのは,佐渡の金山開発です。佐渡金山は,徳川時代になってからも江戸幕府によって,金銀が採掘され続けました。謙信のライバル武田信玄は,甲斐黒川の金山,さらに信濃や武田領となった駿河の金山などから金を得ました。武田勝頼のときに武田氏が滅びたのは,武田の金山を掘り尽くしてしまったからだという説があります。
 なお,採金は初め,砂金によりました。やがて山金,すなわち岩の中にある金鉱脈を掘るようになります。金鉱を探すのは山師の仕事です。鉱脈が見つかると,金子・掘大工らの坑夫・板取・吹大工などの選鉱製練人ら専業稼働人たちが多数登場してきて,坑道穿鑿(せんさく)の技術も進歩していきます。犬走りと呼ぶ斜坑とともに,水平坑道が併用され,䟽水坑・煙抜坑などの大規模なものが切られていきました。また探鉱法は,鉱脈に直角に切り当てる横相や,方位をたてて掘る寸法切りが行なわれるようになりました。
 16世紀中期から末期にかけて,すなわち戦国時代から安土桃山時代には,越前・加賀・能登・越中の金銀山が開発されます。伊豆の金山は16世紀の後期に開かれますが,17世紀になってからは多量の銀を産出しました。佐渡相川の金銀山は,16世紀末の鶴子銀山の発見に端を発し,慶長6年(1601)に開発され,17世紀前半には,最大の産銀がありました。
 こんな話が伝えられています。
 武田勝頼が,奥秩父山中にあったという金山を閉鎖するときの話です。勝頼は,大きな淵の上の崖上に,巨大な楼閣を造らせました。金山には何百人もの坑夫たちが働いており,遊女町まで造られていました。その坑夫や遊女たちを崖上の楼閣に集め,大宴会を催したのです。閉山する最後の記念にと。そして宴たけなわのとき,楼閣を支えていたすべての綱や支柱を切って,坑人や遊女たちすべてを,崖下の淵に沈めてしまいます。鉱山の秘密を守るために。
 これ以後,淵は「おいらん淵」と呼ばれるようになり,濃い霧の日などには,霧の中から遊女のすすり泣く声が聞こえてくるのだといいます。
 なお,金銀山もいずれは掘り尽くしてしまうことになります。そこで閉山することになるのですが,各地の金銀山跡には,似たような鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる話が,語り伝えられています。もちろん,史実というわけではないでしょうが,濃い霧の日などには,ふとそんな気にさせられます……。