戦国大名の城と城下町

 城下あるいは城下町というのは,文字通り城郭を中心として成立した都市のことですが,名称として一般化するのは江戸時代になってからです。中世には,領主の居所(居城)の回りに成立した集落や町場を,堀之内・根小屋・山下などと呼びました。
 こうした集落や町場は,戦国大名が,統一した自らの領国を,兵農分離に伴って,直属の武士団および商人や職人らを城の回わりに住まわせることによって,成立しました。見方を変えれば,そのことによって,各大名たちの領国内の政治や商業・交通の中心として,城下町が発展していったのです。
 しかし,戦国時代の城は,基本的には戦いの要塞です。ですから最初は山城,次いで平山城,そして平城というように移行していきます。時代が下るに従って,要塞より領国統治の中心地,すなわち政治経済の中心地になっていったのです。
 戦国時代に形成された,代表的な城と城下町は,大内氏の山口,武田氏の甲斐府中(甲府),織田氏の安土,豊臣氏の長浜・大坂,また徳川氏の駿河府中(駿府・静岡)などです。それらの城下町の居住者は,武士と僧侶,商人と職人,そして農民も少なからず住んでいました。城下によっては,中心地でも田畑が少なくなかったといいます。
 しかし,兵農分離,また商農分離が進んでいくと,農民が武家奉公人になったり,商人や職人になったりすることが禁じられ,さらに城下に居住している農民は郷村へ帰されてしまいます。こうして城下は,武士と町人すなわち商人・職人の主たる居住地域となり,村落とは異なる地域となるのです。
 たとえば,天正16年(1588年)に伊勢(三重県)の松坂では,武家屋敷と町屋の混住は原則として認めない,という法令を出しています。関ケ原合戦の後,新大名が登場し,元和元年(慶長20年=1615年)潤6月には,一国一城令が定められました。この年は,5月に,大坂城が落城して豊臣秀頼・淀君らが自殺しています。
 さて一国一城令によって多くの小城郭が破却され,大規模な城下町の建設が進んでいきます。寛永時代になると,外様大名(かつての戦国大名)の分地による城下町や陣屋町なども形成されていきます。また,この時期になると,町割が行なわれるようになります。同時に,城郭内の,大名及び武士の居住地と町人の居住地が,木戸とか溝によって区画されて,往来も制限されるようになります。
 仙台(伊達藩)の場合,中級以上の武士の住む町を「丁」,足軽や商人・職人の居住区を「町」と書いて区別しています。同じ「ちょう」ですが,漢字表記することで分けられたのです。また城下の末端に,非差別民の居住区や遊郭などを配置しました。
 なお,戦国時代の城下町は,武士の屋敷地が,住民の半数以上を占めていて,道路は狭く,丁字型とかカギ型になっているところが少なくありませんでした。これは,戦いの際,侵入者の進攻を防げ,弓矢や鉄砲の射通しを難しくするためです。また「ひだ」といって,隣家との間をすこしずらして建て,そのずれたところに身を隠したのだともいいます。松坂や佐賀などに,今もその名残りが残されています。