承久の乱とその背景

 承久3年(1221)5月,後鳥羽上皇とその近臣たちが,鎌倉幕府を滅ぼそうとして挙兵しました。だが逆に上皇方は大敗し,京都は幕府軍に占領されてしまいます。これが承久の乱です。この事変を第二次大戦中は「承久の変」といいました。皇国史観のもとでは,朝廷側が幕府に対して起こした戦争を「乱」というのはよくない,というのです。現在は「承久の乱」でほぼ統一されています。
 さて,後鳥羽上皇はなぜ,鎌倉幕府を討とうとしたのでしょうか。
 後鳥羽上皇による院政は,承久3年まで23年間続きました。その間に将軍は,頼朝・頼家・実朝と3代続きますが,源氏は弱体化し,執権の北条氏が幕府の中心勢力となっていきます。おりしも承久元年正月に,実朝が頼家の遺児の公暁に殺害され,その公暁も殺されて,ついに源氏は滅んでしまいました。
 かねてから武家勢力を不快に思っていた後鳥羽上皇は,この機をとらえて,幕府を滅ぼしてしまおうと考えたのです。
 5月14日,上皇は,京都鳥羽の城南寺(じょうなんじ)に,流鏑馬(やぶさめ)を行なうためと称して,畿内および近国の1700余騎を集め,翌日に北条氏を追討する院宣を発しました。いっぽう上皇は,院宣に従わなかった京都守護の伊賀光季を襲って殺し,幕府と親しい西園寺公経(きんつね)父子を幽閉します。やがて院の近習や西面・北面の武士,検非違使(けびいし)や僧兵なども加わり,後鳥羽上皇方の軍勢は2万数千となりました。上皇は,これで目の上の瘤であった鎌倉幕府を討滅できる,と思ったことでしょう。しかし,その考えが甘いものであったことを,後鳥羽上皇は思い知ることになります。
 後鳥羽上皇挙兵の報は,わずか3日後の5月17日には鎌倉に届きました。このとき北条政子が,鎌倉武士たちに結束を訴えた話は有名です。鎌倉方は,東海道軍10万余騎のほか,東山道5万,北陸道4万からなる大軍を直ちに編制し,京都に進攻しました。上皇方は,幕府軍大挙西上の報にあわてて,主力部隊を濃美国境の木曽川沿いに派遣して防ごうとしますが,なすすべもなく敗れてしまいました。加賀方面に出陣した上皇軍も同様です。上皇は自ら甲冑に身を固めて比叡山に登り,僧兵を味方につけようとしますが,これも失敗し,あれよあれよという間に宇治・勢多の防衛拠点も突破され,6月15日には,京都を幕府軍によって占拠されてしまいました。開戦からわずか1ヵ月,まことにあっけない幕切れでした。
 その結果,後鳥羽・順徳・土御門(つちみかど)の三上皇がそれぞれ隠岐・佐渡・土佐に配流となり,仲恭天皇が廃されて後堀河天皇が即位,後堀河の父である後高倉院による院政となりました。これによって幕府の支配力は高まり,京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置され,朝廷はその監視下に置かれることになったのです。